【インスパイア】ハイグレ人間チェス

前回の記事を読み返したらこりゃ人に読ませる文章じゃないなと反省しました。香取犬です
けど言いたいことは言えたのでそのままにはしておきます。単なる独り言なのであんまり気にしないでください

さて今回は予告通りのインスパイアネタです。そして予告通り(初心者なりに)チェス描写を頑張ったせいでハイグレとは関係ない感じの部分が多々あります
それでも物語としては必要だと思ったから入れたものです。出来れば一度は飛ばさず読んでいただければと思います
なお、「チェスなんてルールも知らん!」という方でも対局の雰囲気だけは楽しめるよう書いたつもりです。最低限の用語解説は冒頭と本文中でしていますので、これをきっかけにルールを……って別にチェスを布教したいわけではないので本当に興味が湧いたらでいいです
そしてチェスが本当に強い方がいらっしゃったとしたら、色々と不勉強が露呈してしまうかと思いますが、そこはどうかお許し下さい
また、棋譜だけでは局面を想像しにくいと思うので、解説のためにちょくちょく局面画像を挿入しています



ハイグレ人間チェス
Inspired by としあき

目次
用語解説
1.襲来
2.覚醒
3.必勝??
4.再会
5.開幕
6.犠牲+
7.三人!!
8.女王!?
9.投了#

あとがき



・用語解説
・チェス:将棋と源流を同じくし、世界的には将棋よりも親しまれている対戦ボードゲーム。2人のプレーヤーが様々な種類の駒を交互に動かし、相手のキング(王)を討ち取れば(あるいはリザイン(投了、降参)させれば)勝利となる
・チェック:今現在キングが敵の矛先を向けられている状態。チェックされた場合、「キングを逃がす」「他の駒を盾にする」「チェックしてきている敵の駒をテイクする」といった対策を講じなければならない。将棋で言う「王手」
・チェックメイト:どのような手段を以ってしてもキングが敵の矛先から逃げられなくなる状態。チェックメイトされると敗北。将棋で言う「詰み」
・テイク:ある駒が移動可能な範囲に相手の駒があるとき、相手の駒の上に重なるように移動すること。重ねられた相手の駒はテイクされ、死んだ駒として盤から除外される。将棋と違い、テイクした敵の駒を自分の駒として再利用することは出来ない
・駒交換:相手の駒をテイクし、その駒(あるいは別の駒)を相手にテイクさせること。駒にはそれぞれ価値として目安となる点数があり(クイーン9点、ルーク5点、ビショップ3点≧ナイト3点、ポーン1点)、基本的には同じ点数同士の交換が起きやすい(起こしやすい)。全持ち駒の合計点が少しでも多い方が有利なため、点数の違う駒同士の交換は(価値の高い駒をテイクされないように出来るだけ対処するから)起きにくい。駒交換にならない状況で一方的に駒をテイクすることを「タダ取り」ということもある
・キング(K):周囲8方向に1マスのみ動ける、互いに1つしかない駒。チェスは相手のキングをテイクするゲームのため、最重要となる駒。将棋で言う「王将」
・クイーン(Q):周囲8方向にいくらでも移動できる、互いに1つしかない最強の駒。最強の機動力は攻防の要であり、味方にいれば頼もしく、敵に回すと恐ろしい。将棋で言う「飛車+角行」
・ルーク(R):上下左右4方向にいくらでも移動できる、互いに2つずつ持つ駒。チェスにおいては斜めの動きよりも直線の動きの方が強力とされる。将棋で言う「飛車」
・ビショップ(B):斜め4方向にいくらでも移動できる、互いに2つずつ持つ駒。斜めに移動できるため陣形の隙間を縫って奇襲を掛けられる。将棋で言う「角行」
・ナイト(N):上下左右に2マス行ったマスのその両脇の位置8箇所へ跳躍して移動できる、互いに2つずつ持つ駒。動きが変則的。将棋で言う「桂馬」だが、より強力
・ポーン(P):前に1マスのみ(初期配置から動く場合のみ2マス前も可能)動ける最弱、最多の駒。ただしテイクが可能なのは両斜め前1マスに限られ、正面の敵駒はテイクできない。なお、敵陣最奥行まで前進するとプロモーション(昇進。将棋で言う「成り」)が可能。ちなみに棋譜上ではPとは表記しない。将棋で言う「歩兵」に近い
・棋譜:チェスや将棋などで双方の指し手を記録したもの。見方は、『Nxd4+』とあった場合『ナイト(N)がd4に移動して元々いた駒をテイク(x)しつつ、チェック(+)を掛けた』という意味になる。盤上のマスの位置は、縦列a~h、横列1~8で表す。正確なチェス用語としては「スコア」が正しい
 *なお、あとがきの最後には本編で使用した棋譜がpgn形式のテキストで置いてあります。ネタバレ注意

詳細はチェス ルールで検索して参照されたし





 彼女の大きく碧い瞳には、それと同じくらい鮮やかな空とどこまでも波打つ白き雲海が映っている。
『……ユキノ、どうしてるかなぁ』
 アリーシャは日本に向かう飛行機の中で、これから久々に相対する好敵手の名前を弾む声で呟いた。
 明後日、東京で開催されるのは、全世界チェス大会のジュニアクラス。その名の通り世界中から、18歳以下の次世代のチェス強豪が集いしのぎを削る、歴史の長い大会だ。アリーシャは12歳にしてロシア国内の小学生大会をいくつも制覇し、最強の名を欲しいままにしてきた。そのため今大会にも今年も当然のように名を連ねている。
 アリーシャの言ったユキノとは、そんな彼女を昨年の大会に於いて下した日本の高校生、夢川雪乃のことだ。アリーシャにとっては因縁の相手ではあるが以前からの友人であり、姉のような存在であった。日本に足を伸ばすことはそんな雪乃に会うことでもあり、自然とアリーシャの心も踊りだす。しかし飛行機がどれだけ進んでいるか分からないこの状況であるから、早く着いてほしいという苛立ちも覚えていた。
 このまま起きていてもどうにもならないのでもう一眠りしてしまおうかと目を閉じかけたとき、隣の席のマネージャー業を兼務する母親のユリアが、慌てた様子でスマートフォンを突きつけた。
『――アリーシャ! 日本が、大変なことに……!』
『何よママ、いきなり?』
 不機嫌そうにそれを覗き込んだアリーシャの目が、怪訝そうに歪んだ。
『……ハイ、グレ?』

 ハイグレ魔王を名乗る宇宙からの訪問者が東京に報せなく居を構えたのは、この1時間ほど前だった。
「ホッホッホ! 地球人よ! 今この瞬間からこの星はアタシ――ハイグレ魔王が頂くワ♪ さっさとハイグレ銃を浴びて、ハイグレ人間におなりなさい♪」
 魔王の世界征服宣言と同時にハイグレ城からパンスト兵が溢れだして、驚く民衆を次々とハイグレ銃で撃ちぬいていく。光線に包まれた人間は老若男女の別なく単色のハイレグ水着を着用させられ、コマネチのポーズをしながら「ハイグレ!」と叫び続けるハイグレ人間に変えられてしまう。こうして人口一千万の大都市は途端に未曾有のパニック状態に陥った。
 その一報は日本全国に、そして全世界に衝撃を持って報じられていく。
 
『はぁ? 訳わかんない!』
 アリーシャは取り乱し、周囲の視線にも臆することなく大声を出した。ユリアは席に座るよう窘めるが、一度着火した興奮は簡単には収まらない。
『私だって何がなんだか……』
『しかもどうして今なの!? ユキノは無事なの!? 大会はどうなるのよぉ!?』
『とにかく落ち着いてアリーシャ。これから各所に連絡を取るから』
『……っ』
 絹のように滑らかで細い金髪をぶわりと舞わせて腰を下ろし、彼女は頬を膨らませつつ再び窓の外を向いた。
 しかし『間もなく着陸体勢に入ります。シートベルトを着用してください』と機内アナウンスが響く。やがて飛行機は暗く厚い雲に突入して、無情にも風景を黒く染めてしまった。

   *

『ん……』
 金髪碧眼の少女は目覚めると、周囲の見たこともないエキセントリックな景色に度肝を抜かした。壁面には奇怪な仮面の絵がいくつも描かれており、およそ地球のものとは思えないオブジェも立ち並んでいる。しかし自分の他に人影は全くない。アリーシャの心に不安と恐怖が立ち込める。
『え、何……!?』
 そもそもどうしてこんな状況になっているのか。記憶を辿ってみても思い当たる節はない。チェスの大会は予定通り開催されると聞いてまず安堵したアリーシャは、会場近くのホテルに到着するや否やフライトの疲れに呑まれて眠りに落ちた。母親が雪乃と連絡を取ろうとしているところまでは見ていたが、本当に取れたかは翌朝聞こうと思っていた。なのに、起きてみたらこのザマだった。
 アリーシャは絞りだすような声で、返事を期待せずに呟く。
『ここどこよ……? 誰かいないの……?』
「――ようこそ、アタシの城へ♪」
 すると男とも女ともつかない流暢な日本語が、彼女を歓迎した。
「誰!?」
 それに対し、少々舌っ足らずなイントネーションの日本語で返答するアリーシャ。彼女は雪乃と話すために数年前から日本語の勉強もしていたので、日常会話レベルなら問題なく理解できる。
 アリーシャはどこからか響く不気味な笑い声に怯え、思わず一歩、二歩と退いた。だが、突如背中から温かい障害物にぶつかって、振り向きつつ尻もちをついてしまう。声の主は後ろにいたのだ。
「わあ!?」
「ホッホッホ! 元気なコねぇ。こんにちは、アリーシャ♪」
 彼女の視線の先に、壁面の仮面そのものを被った長身の人物がいた。名前を呼ばれたが名乗った覚えはないし、もちろん知り合いにこんな奴はいない。なのに何故か、「アリーシャ」という声に不思議とくすぐったい安心感を感じた。そんな自分の心の動きにひどく困惑する。
 口をパクパクとさせているアリーシャに、仮面の人物が状況を語りだす。
「いきなり招待しちゃってごめんなさいね? ここはハイグレ城。そしてアタシはハイグレ魔王!」
「は、ハイグレ魔王……それ、日本に来たっていう……」
「あら、少しは知ってるのネ? じゃあアタシの目的もご存知ィ?」
 機内で見た画像を思い出して、アリーシャは訝しげに答える。
「地球を侵略する、って聞いたけど……」
「その通り。アナタたちをハイグレ人間にして、ネ♪」
 ハイグレ魔王の指がスッとアリーシャを指した。恐ろしい予感が脳裏に走り背筋が凍る。しかし、恐れていた事態は起こらなかった。
「大丈夫、今すぐアナタをハイグレ人間にしちゃったら、ここに呼んだ意味がないもの。――ねぇ、ちょっとアタシの暇つぶしに付き合ってくれない?」
 セリフから察するに、その提案に拒否権はないと感じられた。拒めば用済みとなりハイグレ人間にされる。アリーシャは首を縦に振らざるを得なかった。
 返事に満足したハイグレ魔王は指を鳴らす。すると部屋の中央の床がパカッと開き、下から円形の卓と二台の豪華な椅子がせり出してきた。卓に乗っていたのは見慣れた、
「……チェスボード? まさか暇つぶしって」
 8×8の白黒市松模様の盤に、16駒1セットの戦士たちが向き合っている。それはアリーシャの目には紛うことなきチェスの道具であるように映った。
 魔王は大仰に頷く。
「そう。地球のお遊戯――チェスって言うんですってね。さっき彼女からちょっと教わったワ」
「彼女って?」
 アリーシャの問いに、しかし魔王は目もくれなかった。
「地球はホント、羨ましいくらい平和よね。星間戦争に縁がない星なんてそうそう無いわ。あんなミサイルを撃ちこむ程度で帰る宇宙人がどれだけいるってのよ。まあ、だからこそこういうお遊戯が発展するのよね、それはとっても素晴らしいことだワ」陶酔するような言い回しの後にいきなり眼光を鋭くし、「――だから全部欲しくなっちゃうの♪」
 道化のような仮面の隙間から僅かに、黒い瞳が覗く。それに射抜かれたアリーシャは、目の前の者は単なるホラ吹きの狂人ではなく、本気で地球を我が物にしようとしている侵略の意志を持っているのだということを垣間見た。そんな奴を相手に何が出来るというのだ。
 必然、ただの地球人の少女に異星人から地球を守る術は無い。しかし魔王は自らその機会を与えた。
「でも、簡単に奪っちゃツマンナイじゃない? 地球に来てたった一日で都市一つ洗脳できるなんて拍子抜けよ。……そこでアナタに、チェスで勝負を申し込む。もしアナタが勝てば、アタシは人間たちを元に戻してこの星を去るわ。だけどもしアナタが負けちゃったら……」
 ユリアの見せてくれたあの写真が蘇る。ビル街のアスファルトの上で、沢山の日本人が色とりどりのハイレグ水着姿でおかしなポーズをとっていた。負ければそれと同じにされるのだ。とは言えハイグレ人間をまだ直接見ていないアリーシャには実感が湧かない。例え敵の総大将が眼前にいたとしても。
「――勝てばいいんでしょ? そしたら地球は救われる」
 そう、何にせよ負けなければいい。
「ならやるわよ。勝負してあげる」
「ホッホッホ! 威勢が良いわねェ」
「宇宙人だかなんだか知らないけど、わたしはロシアのチャンピオンなのよ! 今年こそユキノに勝つためにも、あんたなんかに負けられないんだから!」
 アリーシャは思い切り魔王に挑戦状を叩きつけた。見た目は可愛らしくとも、ことチェスの場において彼女は立派な一人の棋士である。相手がいかなる生命体であったとしても、同じチェスの盤上で闘うのならば関係ない。しかも先ほど魔王はチェスのルールを知ったばかりだと言ったではないか。初心者に負けるほど自分は弱くない――アリーシャのロシア小学生チャンピオンの肩書きは、魔王からの真っ向勝負を受けて立つことを悩むことなく選んだ。
 魔王の肩が小刻みに揺れる。小さな笑い声までも仮面の奥から漏れていた。
「な、何がおかしいのよ」
「アナタが彼女から聞いたとおり、あんまり簡単に挑発に乗るものだからおかしくってねェ♪ ま、潰し甲斐があって嬉しいけど」
 再び発せられた「彼女」という単語に悪寒が走る。そんな性格分析をする人間など、自分をよく知る者しかあり得ない。まさか雪乃か、それとも。
「じゃあこの勝負、その彼女に立ち会って貰いましょっか? ――お入りなさい!」
 その言葉と同時に部屋の一角の扉が開き、一つの人影が表れた。アリーシャの瞳が、驚愕に揺れる。
「……マ、マ……!」
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ! 失礼します、ハイグレ魔王様!」
 それはアリーシャと共に来日した実の母親、ユリアであった。しかしマネージャー用の固いスーツはどこへやら、今の彼女がまとっているのは見るも恥ずかしい赤のハイレグ水着。アリーシャの知る母は、こんなことを嬉々としてする人物などでは決してなかった。
 呆気にとられるアリーシャの前で、再びユリアが豊満な胸を揺らしてハイグレポーズを取る。
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
 アリーシャは居ても立っても居られなくなり、ユリアの水着を掴みにかかった。そして二人に共通の母語でまくし立てる。
『どうしちゃったのママ!? 何で、何でそんな格好を!』
 アリーシャとは対称的に眉一つ動かさずに、ユリアは淡々と答えた。
『昨晩、私たちの宿泊していたホテルにパンスト兵様がやって来たの。そして私はハイグレ人間にしていただいた。けれど人間の私は、あなたのことだけは何としても守りたかったから、必死に見逃してもらえるよう懇願したの。この子はチェスの大会に出なければならないのです、と。すると魔王様は寛大にも、魔王さまのお暇を潰すために連れていくことを条件に洗脳を取り止めてくださった。私はその場でハイグレ人間にしていただいたけれど』
『ママ……!』
 ユリアが必死に自分を守ってくれたことを知り、胸が苦しくなる。
『でもねアリーシャ』ユリアは声色だけは普段と変えずに、しかし本当に彼女だとは思えない言葉を吐いた。『私は後悔しているの。あの場であなたも共にハイグレ人間になっていれば良かった、と。あなたが一時でも、例え遊びの上でも、魔王様に逆らう姿など見たくはなかったわ。……アリーシャ、せめて潔く負かされなさい』
 冷たく言い放った後アリーシャの手を振り払うと、ユリアは対局卓の前へと移動していった。
「……許さない」
「何ですって?」
「許さないって言ったのよ! よくもママをおかしくしたなっ! あんたなんか絶対に本気でぶっ飛ばしてやるんだからぁっ!」
 小さな胸の内に、強い怒りの炎が燃え上がる。ユリアの言葉がアリーシャの中の何かをぷつんと断ち切ったのだ。アリーシャは固い握り拳を振ってテーブルに向かっていく。
 魔王もそれについていき、卓を3人で囲う形となったところでユリアが宣言した。
「ではこれより、ハイグレ魔王様対アリーシャの対局を開始します。先後決めはアリーシャが握り、魔王様が選んでください」
 言われるがままにアリーシャは両手に白黒のポーンをそれぞれ握り込み、シャッフルする。それから差し出された手のうち、魔王は左手を選択する。開かれた左手には黒駒があることを確認して魔王は黒側の椅子に、アリーシャは白の駒の椅子に腰を下ろした。
 将棋や囲碁とは違いチェスでは白側が先手であるのだが、実はチェスにおいての先手は後手に対して相当なアドバンテージを持つ。双方の実力が伯仲している場合は後手で勝利を収めることがなかなか難しいため、後手は一旦局面を引き分けに持ち込み、先後を交換しての指し直しを狙いにいくことさえもままあるほどだ。
 故に先手となったアリーシャには心に余裕が生まれていた。強豪揃いの大会でならいざ知らず、少しユリアからルールを習った程度の相手に負ける道理はない。いくら小学生の身であれども、チャンピオンの名は伊達ではないのだ。
 ……チェスで初心者に勝つだけで、わたしは地球を救える? それならわたしは何個でも地球を救ってやるわ!
 相手がいくら弱かろうと、少なくとも母親の仇ではある。手を抜く理由にはならない。全力でぶっ潰してやる。
 アリーシャは強い覚悟を決めて、ナイトの駒を前に進めた。
 Nf3。わざとセオリーを少し外し、キングの守りを優先する手だ。どうせ相手が初心者ならば中盤の攻め合いで負けるはずはないのだから、まずは迎撃体勢を整えることを狙いに行く。しかし、これを見た魔王は、
「はぁ……」
 深い溜息を、長く長く吐き出していた。その挑発に等しい行為に当然、対局者のアリーシャは腹を立てる。
「何か文句があるっていうの? ならさっさと指しなさいよ!」
「言われなくても指すわよぉ。けど、一つだけ言わせて?」
 刹那。ハイグレ魔王の赤い双眸が、爛と輝いた。
「――その戦法、とっくの昔に必勝法が見つかってるワ♪」


「うぅ……何で……? 何でよぉ……っ!」
 対局開始から30分後。碧い瞳に涙を浮かべてアリーシャは、散々悩んだ挙句にキングの盾とすべくポーンを動かした。
 大勢は既に決していた。盤上に残る僅かな駒では、どうあがいてもアリーシャに勝ち目はない。それどころか魔王がここから大悪手を指さない限り引き分けにもならない。しかし、この魔王がそんなミスを犯すはずはないと、もうアリーシャには分かっていた。
 ……嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ!
 未だに理解できないのは対局初手に対する、魔王の「必勝法」という台詞。
 チェスの序盤でするべきことの一つは、盤の中央を制圧することである。そのために例えば中央のポーンを前進させるのが単純明快だと言えるが、もちろんアリーシャがしたようにナイトを跳ばすことも、全くもって非難される謂れもない初手の一例だ。確かにチェスでは序盤の一手のミスが敗北に繋がることはある。しかし歴史あるチェス界の常識の範囲内にあるNf3を失策とのたまうなど、それこそ常識外の暴挙である。
 だが、ハイグレ魔王は「必勝法がある」と断言した。そして言葉通りアリーシャは狙っていた駒組みを許されないほどの猛攻を受けて大劣勢を強いられ、何も反撃の目を見出だせないままに駒を散らされていった。同時に魔王側も器用に指し回しており、自陣に必要最低限の駒しか残していない。が、それは全て計算づくであって、逆転の可能性を残してくれているという意味ではない。結果から見れば明らかに、魔王の言葉は正しかった。――信じがたいことに。
 人間の想像を絶するほどの圧倒的力量差、あるいは圧倒的な戦術研究量差。アリーシャはなまじ強いばかりに、初手の着手直後からそれを感覚で感じとってしまい、戦意を徐々に削られていったのだ。そして今となっては最早風前の灯である。
 ……もうリザインするしか……でもそれじゃあ……!
 普通の対局であれば、いかな負けず嫌いのアリーシャであっても数手前に潔く投了していた。だが今はその双肩に母と自分と世界の命運が掛かっている。チェックメイトの局面が見えていても諦められなかった。しかしその予想通りに双方の手は進んでいく。やはり魔王にも詰みが見えているのだ。
 リザインしようにもすることは出来ない。その間で頼りなく揺れる仄かな火に、魔王は容赦なく息を吹きかける。
「あーあ、拍子抜けしちゃった。まさかこんなに弱いなんて」
 アリーシャの身体が硬直した。そしてユリアは股を開いて謝罪する。
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ! も、申し訳ありません。これでもアリーシャは世界トップクラスの実力の持ち主なので、魔王様のお相手も務まるかと思っ――」
「ぜーんぜん務まってないじゃない! こんなのがトップクラス!? 全く、地球のレベルを過大評価しすぎたカシラね……!」
 心からつまらなそうにするハイグレ魔王に、アリーシャは久々に怒りの感情を覚えた。自分を扱き下ろされるのはもうどうしようもないが、他の人を――雪乃をバカにされることだけは我慢ならなかった。
 炎が勢いを増しているところに、さらに魔王は燃料を投下していく。
「大体、見た感じこのチェスって遊び自体、宇宙チャトランガの派生でしょ? 宇宙チャトランガ系ゲームからランダム要素を除いたら先手必勝って、これもう宇宙の常識じゃない! それを初手ナイトって……他ならともかくよりによって自分の必勝を捨てて後手必勝になる初手なんて、宇宙チャトランガのギャラクシーマスターであるアタシに喧嘩売ってんのかと思ったワ! 最初に喧嘩売ったのはアタシだけど!」
 魔王の口から繰り返される「宇宙チャトランガ」をアリーシャは知らないが、「チャトランガ」ならば小耳に挟んだ事がある。古代インド発祥のボードゲームで、現在のチェスや将棋などの源流となったとされる遊戯だ。魔王の言い草からするとチャトランガは宇宙チャトランガなるものの劣化コピーであるように捉えられるが、チャトランガがどのように成立したかは誰も知らない。宇宙人から伝えられていた可能性も、否定は出来ないのかもしれない。
 ただ、歴史の真実が何にせよ今この場での勝敗には一切関係がない。魔王はチェスの心得は無くとも、宇宙チャトランガの腕前と宇宙規模の戦術知識を持っていた、だからチェス初プレイでもアリーシャを上回った――それだけの話だった。
「もうこれ以上引き延ばしてもしょーがないわネ。おしまいにしましょ……はい、ルークe8」
 これで次にアリーシャがどう受けようとも、その次でチェックメイト。後手の勝ちだった。
 ……初手Nf3が必敗なんて言っても地球人は誰も信じないよ。わたしもさっきまで信じられなかったもん。……なのにそれを常識なんて言う奴に、勝てる訳がないよぉ……。
「うぅ……うぁぁ……」
 アリーシャは唇をわなわなと震わせて俯いた。肩からこぼれた金髪が垂れる。悔しさと怒りが混ざり合い、声にならない声となって溢れだした。
「ほら、アンタの番よ」
 催促に対し、打つ手なしと認めざるを得なくなったアリーシャは、
「……リザイン、です……」
 脳裏に浮かぶ悪い想像に慄きながらも、コトンと自らのキングの駒を倒した。
「無様ね」魔王のナイフが敗者の心を抉る。「地球……もっと楽しめると思ってたワ。洗脳活動の方も何の問題もなく順調だし、暇つぶしもこのザマじゃあねェ。ちゃあんと抵抗してくれないとツマラナイじゃない」
 何度目かの落胆、そして魔王は何処かに命令を下す。
「パンスト兵! とっととこの地球を洗脳しておしまい! こんなザコばっかりの星に時間を取らせないでよ!」
 その言葉が、アリーシャの最後の誇りを爆発させた。駒が倒れるほど強く机に手を叩きつけ、髪を振り乱して立ち上がった。
「――地球を、みんなをバカにするなっ! あんたなんか! あんたなんかザコよ! 地球にはもっともっと、強い人がいる! あんたを倒せる人がいるっ!」
 アリーシャは自らのプライドを全て投げ捨てて、涙ながらに叫んだ。地球はお前に侵略されるための星じゃない、と。地球には自分が誇りにしている強者がいるのだ、と。自分なんてザコでいい、だけど自分だけを見て地球を量るな。
 すると魔王の眼に、久しぶりに好奇の色が浮かんだ。
「へぇ……ならアリーシャ。アナタが思う最強のチェスプレイヤーとやらを教えなさい。そうすればもう一度だけ、人間たちにチャンスを与えるわ♪」
 魔王は間違いなくアリーシャにしたように、ご指名の人物を拉致してチェスマッチを仕掛ける気でいる。その掛け金は当然、地球。
 ここで名前を挙げれば確実に自分以上の重責を掛けてしまう。それでもそうしなければ、世界はハイグレ魔王に屈してしまう。
 アリーシャは悩んだ末に、最も信頼する人物の名前を言った。
「ユメカワ、ユキノ。わたしの大好きな友達。わたしの最強のライバル……!」
 ……ごめんね、ユキノ。お願い、こいつを……!
 そうしてアリーシャは脱力し、机に突っ伏した。魔王はその名を聞き届けて再び声を張り上げた。
「ホッホッホ! 承知したわ! ……パンスト兵! そのコを洗脳しないで連れて来なさい! それと、そうね。ついでにそのコの――」
 続く言葉に、アリーシャは目を見張る。魔王の残酷さに反吐が出る。それでも、敗者に文句を言う資格は無いのだった。
 パンスト兵への命令が一段落すると、魔王はぱちんと指を鳴らす。それを合図に赤のハイグレ姿のユリアが素早く動き、テーブルを涙で濡らして丸まっていたアリーシャを背中から羽交い締めにした。
『……マ、ママ!?』
『魔王さまのご命令よ。黙りなさい』
 アリーシャは何とか逃れようともがくが、元々の体格差に加えて異常な筋力で締め上げられているため果たせない。そうする間に魔王の右手がアリーシャの胸に伸びてくる。悪魔のように青い肌と鋭い爪に生理的に死の恐怖を抱き、アリーシャの顔が歪む。
「安心なさい、誰も殺しはしないわヨ」
 そうかもしれない……が。
「やめて……イヤぁ……!」
 背中に感じる滑らかな生地。それを自分も着るなんて。
「ハイグレ人間なんて、イヤ……っ!」
「だってアンタ、負けちゃったんだもの。そーゆー約束なんだから仕方ないじゃなァい」
 膨らみかけの胸から僅か紙一重ほどの位置に小指を掲げる魔王。アリーシャの怯える目の前で、指の先にポウっと怪しげな光が灯った。その意味は言われずとも分かる。
 ……ユキノっ!
 アリーシャは心の中で最後に親友の名前を叫び、きつく目を閉じた。
「じゃ、アリーシャぁ……ハイグレ人間になりましょォ♪」
 ねばっこく後を引く声の後、その身体に――
「イヤあああああああああああああああああああ!!」

   *

 少女は固い床の感触に不快感を覚えて、すっきりしない目覚めを迎えた。
「痛……っ」
 少女が倒れていたのは1.5メートル四方程度の白い床。その白さは、周囲の真っ黒さと比べると異様であった。この状況を例えるならば、闇の海原にぽつんと月明かりの差す小島が浮かんでいるようなものだ。
 当然こんな場所について彼女に心当たりはない。直近の記憶では、高校生である彼女は世間の混乱を話半分に聞き流しつつ普段通りに高校の教室で授業を受けており、あるとき突然に――
「そうだ、皆は……!?」
 意識が途切れる寸前の光景をフラッシュバックした少女は慌てて立ち上がり、しかし闇の世界には自分以外を確認できずに立ち尽くした。
 ――突然に奇っ怪な集団が編隊を組んで飛来し、窓の外からクラスメートを銃で次々撃ち抜いていった。撃たれた者は変態的なハイレグ水着姿になって、おかしなポーズを繰り返しだした。教室内のパニックを全く気に留めずに集団は銃を収めると、今度は乗り物の鳥を模した部分を妖怪ろくろ首の如く伸ばし嘴を広げて、逃げ惑う生存者をぱくりぱくりと飲み込んでいった。少女も抵抗虚しく、すっとぼけた顔の鳥に食べられてしまったのだった。
 ペリカンの口のように伸縮する黄色い袋状の空間の中で、少女は自分と友人たちの安否を想いながら気を失った。そして目覚めたらこのザマである。
 少女は足元に落ちていた眼鏡をかけ直してから、跪いて恐る恐る闇の海に手を伸ばそうとした。するとその寸前に、
「ホッホッホ! どうやら起きたようね、夢川雪乃♪」
 どこからか、無理して女声を出しているような男性の声が轟いてきた。少女、雪乃は警戒心を強めて問い返す。
「あなたは?」
「アタシはハイグレ魔王! この星の支配者!」
 パッと、少し離れた一階層高くにテラスのように出張った場所が明るくなって、マントに身を包んだ仮面の人物が見えた。
 ハイグレ魔王、とその人物は名乗った。それは2日前に東京に降り立ったという、謎の異星人の名前だった。もちろん雪乃も知っている。こいつのせいで、今日催されるはずだった全世界チェス大会は中止となったのだ。昨日の時点ではまだ開催予定だったのだが今朝運営側から電話があり、安堵したような声で「出場予定者の半数以上と連絡が付かない、残りの出場者の身の安全を図るためにも大会は中止する」と一方的に言われたのだった。それで仕方なく学校に登校することにした。こんなときでも学校というものはスケジュール通りに動くのか、と呆れながら。
 連絡が取れないと言えば、魔王襲来とほぼ同時に来日しているはずの友人、アリーシャもそうだ。落ち着いたらメールするよ、とフライト前に聞いて以来何の音沙汰もない。あまり悪いことは考えたくないので、無事だと信じてはいるが。
 雪乃は、そんな諸悪の元凶が本当に眼前にいるなどとは半信半疑ながらも、再び問うた。
「では、ここはどこですか? 私はおかしな集団に連れ去られたのですが」
「んふふ、ここはアタシのお城よォん♪ アタシがパンスト兵に頼んだの。アナタをここに連れてくるように、ってネ♪」
「何故そんなことを……」
「それはね、アナタがとォ~っても強いチェスプレイヤーだ、って聞いたからヨ。アタシあんまりチェスはしたことないんだけど、アナタの強さには興味があるの。……ねぇ、ちょっとお手合わせ願えなァイ?」
 くねくねと懇願する魔王に、雪乃は二重の意味でゾッとした。単純に言動が気持ち悪いことが一つ、もう一つはそのように控えめに言っておきながらも、相当の手練のような雰囲気を感じ取ったからである。以前手合わせした日本のチェスチャンピオンと同じ、あるいはそれ以上の威圧感だ。
 だがそんなことはどうでもいい。
「お断りします」
 こんな妖しい相手と闘う気なんて毛頭ない。ただでさえ大会を潰されて興を削がれているのだ。その張本人と今更チェスなど嫌に決まっていた。
 しかし魔王は食い下がる。
「あら残念……でも、このコを見ても同じことが言えるカシラ?」
 言うと、魔王のすぐ下方、雪乃と同じ平面上の10メートル程先の黒い床が照らしだされた。そこに立っていた人物を見て、雪乃は息を呑んだ。
「――はいぐれっ! はいぐれっ! はいぐれっ!」
 金の滝のような髪、青い宝石を嵌めたような瞳、白くキメ細かい肌。そのよく見知った可憐な笑顔の小さな着せ替え人形は今、純白のハイレグ水着を着せられていた。
「アリーシャっ!?」
「はいぐれっ! ユキノ! 久しぶりだねっ!」
 アリーシャはハイグレポーズを躊躇いなく繰り返してからユキノに手を振る。その顔も声もいつものアリーシャ。しかし首から下は、どう考えてもアリーシャのものとは思えなかった。あんなにはしたなくえげつない格好を、アリーシャだろうと誰だろうと自らするはずがない。考えられるとすれば一つ。
「……ハイグレ魔王っ!」
 あの高笑いする仮面が、アリーシャをこうさせた。ハイレグ水着姿でガニ股になるポーズを笑顔でするように、洗脳したのだ。自分のクラスメートのように。
 雪乃の頭に徐々に血が上っていく。だが魔王の方はヘラヘラと調子よく笑っているばかりであった。
「ホッホッホ! このコはアタシとチェスをして、そして負けた。だからハイグレ人間になったのよ♪ ――ねェ、アリーシャ。今の気分はどう?」
 ぐいと柵から身を乗り出した魔王に、ロシアの少女は満面の笑みで答えた。
「はいぐれっ! はいぐれっ! 最高だよ魔王さま! ハイグレ、すっごく気持ちいいの!」
「ホッホッホッホッホ! あのアリーシャもすっかりハイグレ人間ねぇ。最初はあんなに嫌がってたのに♪」
「うぅ、それは言わないでよぉ……今は、魔王さまに負けてハイグレ人間にしてもらえて良かった、って思ってるんだから!」
 はいぐれっ、はいぐれっ、と我が身を誇るようにポーズをとり続けるアリーシャ。
 嫌な予感がピタリと当たってしまい、雪乃は愕然とする。こんな最悪の形での再会など想像もしていなかった。
「さァて」という声で視線が魔王に移る。「もう一度だけ聞くわ、雪乃。アタシたちとチェス、してくれない?」
「……私が勝ったら、何をしてくれるのですか?」
 負けたらハイグレ人間にされる。それはもう理解した上で尋ねる。
「そしたらこの星の侵略を諦めるわ。ちゃァんとアリーシャや他の人たちの洗脳も解いたげる。……ま、勝てたらの話だけど」
「本当ですか? 嘘ではありませんか?」
「しつこいワね、本当よォ。安心なさい、オカマに二言はないワ」
 話し相手にオカマとカミングアウトされ、少々悪寒が走る雪乃。とは言え、心は決まっていた。
「……分かりました。勝負をお受けします」
 どうせ断ったらハイグレ人間にされる。ならばやるしかないではないか。
 その返答にアリーシャが飛び跳ねた。
「やったぁ! もうすぐユキノもハイグレ人間だね! 早く一緒にハイグレしよっ!」
「悪いけど私は負けませんよ、アリーシャ。勝って、あなたを元に戻します」
「えー? そんなの絶対無理だよ。ユキノは強いけど、魔王さまの方がもっと強いもん」
「いいえ、絶対勝ちます」
「絶対無理っ!」
 お互いに譲らずに睨み合う少女たち。それを横目に魔王は愉快そうに笑い出した。
「――ホッホッホ! 喧嘩するほど仲がいいとはこのコトね♪ ならばアリーシャ、アナタが雪乃と勝負なさい。したかったのでしょう?」
「いいの!? で、でもそれじゃ、もしかしたら負けちゃうかも……」
 アリーシャは目を輝かせて魔王を振り仰いだが、すぐに弱気になってしまう。それを魔王は「心配ないわ」と励ます。
「いざとなったらアタシが手を貸すわ。力を合わせてあのコを倒しましょ♪」
「分かった! 一緒に頑張ろ、魔王さまっ! はいぐれっ!」
 と、二人が場所を交代するために闇の中に消えようとするのを、雪乃が慌てて待ったを掛けた。
「待ちなさい! いくらなんでも一対ニ、合議制だなんて私は認めていません! やるなら対等な条件でないと!」
 すると魔王は一旦足を止め、首だけくるりと180度回して、
「基本はアリーシャに任せるわよ。でもアタシ、さっきちゃんと聞いたじゃない。『アタシ"たち"とチェスしてくれない?』って」
「そんな――」
 反論も聞かずに消えてしまった。雪乃が唇を噛んでいると間もなく同じ目線に魔王が来て、テラスにアリーシャが着いた。見ると魔王はいつの間にか黄色と青の仮面を外しており、代わりに額に白いティアラを着けていた。雪乃の訝しげな視線に気付いた魔王が、ドギツい化粧で飾った唇を動かす。
「あぁコレ? 王冠の代わりよ。被り物をしたら自慢のモヒカンが潰れちゃうじゃない」
「……王冠やティアラが、どうして今話題に出るのですか?」
「それはこれから説明するわ。――とにかくアナタもコレ被って」
 ポンと魔王が放ってきたのは、足元と同じ黒色の王冠。重そうに見えたがとても軽く、狙いも正確だったため簡単に受け止めることが出来た。その王冠を言われるがままに被る雪乃。王冠は絵本の王様が被るようなデザイン、と言うよりはむしろ、雪乃がよく知るキングの駒の形に似ているように思われた。
 その予想は、ずばり的中する。
「いいこと? これからするのはハイグレ人間チェス。アタシとアナタがキングの駒になって、盤上を駆けるの。面白そうじゃない?」
「なるほど。私が詰まされたらその場でハイグレ人間に、という訳ですね」
 それでようやく床が四角く白い理由に合点がいった。ここはe8……チェスボードでは黒のキングの初期配置マスなのだ。よって魔王のマスは白のキング、e1ということになる。
 とすると二人の周囲にはまだ8×8-2=62マスの空間が隠れているはずだった。
「お察しの通りよ。でもそれだけじゃツマンナイでしょぉ? だから――こォんなのをご用意したワ♪」
 魔王の合図と共に、一気に闇が晴れた。その明るさに目を焼かれた雪乃は苦しんでしばらく目を閉じ、やがて少しずつ開いていく。そして周囲の光景を目の当たりにして、絶句するのだった。
「――っ!?」
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(作注*これ以降登場するチェス盤の画像はひふみんアイ後手黒番からの視点です。駒アイコンは左下隅(h8)から右へ順に、ルーク、ナイト、ビショップ、キング、クイーンを表します。他はポーンです。作中の棋譜のマス記号が表すマスは、この画像で見た場合、縦列左から右へh~a列、横行上から下へ1~8を組み合わせた位置のものです)

 魔王の左右に4人と3人、その前列に8人の、それぞれ頭に駒の被り物をしたパンスト兵。異様な威圧感はあるがそんなのはどうでもいい。雪乃の周囲にもそれと同じ配置で人間が立たされていたのだが、彼らの正体は、
「ぅくぃぉ!」
「はふへへっ!」
「ぅえはあっ!」
「ぅくぃぉぁん!」
 雪乃の高校のクラスメートの面々であった。雪乃と同じく制服のままだが被り物と、口に猿轡をされた状態で男女合わせて15人。光が灯ると同時に一斉に雪乃に近づこうとして、しかしそれぞれマス目の境目には見えない壁があるかのように先に進めずにいる、そんな哀しき虜囚が15人。
 この状況を見て雪乃は当然、ある想像に思い至った。ハイグレ人間チェス――それはキングだけでなく全ての駒に人間を用い、テイクされた人間はハイグレ人間にされる非道なチェスなのではないか、と。確かにイタリアでは人間チェスのイベントがあると聞くし、日本でも人間将棋を行っている。だがそれら遊戯とこれとは駒の価値があまりにも違う。単なる退場ではなく、洗脳。雪乃の采配で、友人たちを危険に晒さなくてはいけない……いや、局面によってはわざと犠牲にする必要も出てくるだろう。
 そこまで考えて雪乃は力をなくして座り込んだ。クラスメートの助けを求める声が否応なく聞こえてくるのが怖くて、更に耳を塞いだ。
 だが魔王の声だけは、直接心に響いてきた。
「ホッホッホ! 面白いでしょォ? 今更ルールは説明する必要はないわね。彼らはキング――プレイヤーの命令には絶対服従。だからアナタは普段通りにチェスをすればいいのよ。変に動揺されて本来の実力が出せないと困るんだケド……大丈夫?」
「あなたに心配されたくなんて、ありません……っ!」
「あと、そのまま勝負を始めない気なら投了扱いにするわよ?」
 それだけは断じてしない。雪乃は気力を振り絞って立ち上がり、深呼吸して息を整えてから言った。
「……みんな、巻き込んでごめんなさい」
「ぅくぃぉっ!」
 雪乃のすぐ右隣、クイーンのティアラを着けた少女が上目遣いで名前を呼んでいた。クイーンは唯一盤上を八方に駆ける機動力を持つ最強の駒。キングを除けば最も貴重な駒だ。その役に大親友である和美が宛てがわれていることに、雪乃は嬉しいような悲しいような気分になった。和美にだけ改めて小声で「ごめんね」と呟き、それから声を張り上げる。
「私、ハイグレ魔王を必ず倒します。……ですがそのために、もしかすると対局中にみんなを……見殺しにしてしまうかも、しれません。でも、どうか今だけ、私を信じてください。もし誰かがやられても絶対に魔王に勝って、元に戻しますから。学校に帰ってからならどんな罰でも報いでも受けますから。だから……!」
 一息、
「――私に力を貸してくださいっ!」
 雪乃の訴えは、間違いなく15人の心を打った。泣きわめいていた者達も少し平静を取り戻したようで、雪乃に向かって頷くことで覚悟を決めた。
 そしてテラスから、アリーシャの弾む声が掛かった。
「ユキノ! そろそろいーい?」
「……はい。始めましょう」
 雪乃はそう応じる。すると盤外の位置にもう一つスポットライトが当たり、審判役の赤いハイグレ姿の人物を照らし出す。
「ユリアさん、あなたも……」
 少女の落胆に振り向くこともせず、アリーシャの母ユリアは自分の仕事をこなした。
「――それでは、魔王様・アリーシャ組対雪乃さんの対局を始めます。先手は、先の対局に則り魔王様・アリーシャ組です」
「そんな横暴な――」
「さっきはアタシが後攻だったから、アナタには関係無くて悪いけど白を取らせてもらったワ。じゃぁアリーシャ、頼むわよ」
「はいぐれっ! e4!」
 魔王もアリーシャも雪乃の言葉に耳を貸さず、勝手に初手を指してしまった。雪乃は一方的に後手を取らされたことに釈然としないが、とにもかくにも対局は始まった。
 eの縦列は双方のキングのある列である。アリーシャの指示に従って、その目の前にいるe2のポーンが2マス前進してきた。ポーン役のパンスト兵の進路には、見えないバリアなどは無いようだった。恐らく指し手を宣言されると、駒の進路だけは通行可能になるのだろう。……では、駒が移動を拒んだら? 考えたくはないがいつかはぶつかる問題であろう、と雪乃は頭の片隅に置いておくことにする。
 白の初手は超オーソドックスな中央制圧の手。これに対して雪乃は、不利な黒番において少しでも勝つ確率が高い定跡を選択する。
「c5。木村さん、お願いします」
 雪乃から見て右に2マス前に1マスにいるポーンを、2マス前進させる。名前を呼ばれた短髪のスポーツ少女、木村は頷いて指示に従った。
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 この定跡はシシリアン・ディフェンスと呼ばれる、後手の指す主流の戦法だ。c5の狙いは、白に次にd4とされて盤中央にポーンを並べられることを防ぐための睨みである。定跡通りに進むならば、白の次の手はそれでもd4を狙いに行くためのサポートとしてのNf3。雪乃の頭でもそう予測して、更なる次の手を考えていた。
 しかし定跡に反して、アリーシャはナイトをジャンプさせなかった。
「d4! ……魔王さま、これでいいよね?」
「いいでしょう。ちゃんとさっきの反省が生きてるわネ♪」
「えへへっ! わたしだってバカじゃないもん。はいぐれっ! はいぐれっ!」
 二人の楽しげな会話は雪乃にも筒抜けだが、「さっきの反省」の意味するところは十分に理解できない。単純に考えれば先の対局でアリーシャが序盤にナイトを使ったことで負けた、となるが、雪乃の中の常識がそれを否定するからだ。
 ただ、想定外とは言えこれは黒が有利になるチャンスでもある。故に雪乃はありがたく、とばかりに連続で木村に指示を出した。
「木村さん! ……その……」
 宣言の途中で一瞬言いよどんだが、逡巡の後、決心して言い切る。
「……d4のポーンを取ってください!」
 2手目の黒番にしてこの対局初のテイク。すると木村は、猿轡をされていても分かるほどの笑顔で「おう!」と返事をした。他の生徒たちも俄に沸き立ち、「行け!」「やっちゃえ!」と言わんとしていた。その理由は、d4にいるパンスト兵がやけに人間臭く怯えていることで分かるだろう。
 生徒たち、いや人間にとってパンスト兵は憎き侵略者で仲間の仇だ。それを遊戯の上とはいえ討てるとあっては、感慨もひとしおなのだから。
 木村は力強くd4のマスに踏み込み、大きく引いた右拳に体重を載せて打ち出した。腰の引けたパンスト兵の腹にねじ込まれたかと思われたそれはしかし、命中よりも早く相手が消え失せてしまい果たせなかった。木村の領域がd4に上書きされたのに合わせて姿が消えたようだ。
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 少々不完全燃焼だったが盤上から敵を減らしたことには違いない。木村に対してわっと歓声が上がる。
 しかし、
「おめでたいコたちねェ……。こんなことで喜べるのも、今のうちよ?」
 呆れたような白のキングの声がして笑いは徐々に静まっていってしまう。そう、自分たちはあのパンスト兵と同じ盤上の駒。いつテイクされてしまうかも分からない、使い捨ての駒。
 そのことを全員に改めて認識させた後、魔王は続ける。
「ところで、チェスのルールが分かる人は多くないのかしら? その木村ってコ、もしかしたら次やられちゃうかもよ?」
 名前を呼ばれた木村の表情が一瞬で強張った。彼女から誰も隔てずに前方、魔王の隣のマスに鎮座するパンスト兵はクイーン役。それがハイグレ光線銃を構えながら愉快そうに木村を見つめていたのである。
 そして更に、悪魔の微笑みを浮かべて畳み掛けてくる。
「アンタたち、これだけは忘れちゃダメよ。これからアンタたちをハイグレ銃で撃つのはアタシたちだけど、そのアンタたちをやられちゃうようなトコに配置するのは――雪乃なんだからネぇん♪」
 これをトドメとして、場の空気が一気に凍りつく。生徒の誰もがそんなのは屁理屈であると、こちらの心を惑わそうとする話術であると頭では分かっている。しかし魔王の言い分に一理もないわけでもないのだ。不慮の失策によってやられる駒もあるだろうし、勝利のために必要となる生贄もあるだろう。自分たちの生殺与奪権を雪乃に握られている生徒たちは、雪乃には従わなくてはならない。ならば自分や仲間がやられた場合、責任は雪乃にあるとも言えるではないか……と、嫌でも考えてしまう。そしてそんな自分自身が嫌になっていく。
 また、雪乃はアリーシャの次の3手目の選択肢の中にQxd4、即ちクイーンで木村を襲う手も存在するだろうということは読んでいた。読んだ上で木村を使った。しかしその次手は白の陣形を自ら崩してしまう一手ゆえに、まさか指さないだろうと判断したのだった。とは言え、今日の定跡に囚われないアリーシャならばQxd4を指す危険性も考えられた。
 チェスにパーフェクトゲームなど通常あり得ないと知っているからこそ、雪乃は先程全員に「見殺しにしてしまうかも」と伝えたが、当然できることなら犠牲は極力減らしたいと思っている。アリーシャが木村を取るか、取らないか。それは賭けだった。
 雪乃はなるべく表情には出さないように、しかし心の中では必死に祈り続けた。やがてアリーシャが、動く。
「はいぐれっ! 行くよ、c3!」
 それは幸いにも、常識的な対応の一手であった。木村の無事に一旦胸を撫で下ろす雪乃だが、全く油断は出来ない。このc3に動いてきたポーンが狙っているのは、他でもないd4の木村だからだ。将棋で言えば歩がぶつかっている状態。雪乃の次手の第一感は木村がそのポーンを倒すというdxc3だ。が、それを選ぶ気は雪乃には初めからなかった。何故ならそうしたらアリーシャは次に間違いなく、ナイトで木村をテイクしてしまうからだ。結果だけ見れば双方のポーンが一体ずつ盤上から消えるわけでありプラスマイナスゼロの交換なのだが、このハイグレ人間チェスにおいてはただの交換ではない。それを選ぶということは――あくまで魔王の言葉に従えば――雪乃が木村をハイグレ人間にした、ということになるからだ。
 悩む雪乃の目と、木村が送った怯えの視線が交錯する。「助けて」と語る目だった。
 それで雪乃の手は決まった。定跡を外れてでも、木村を助けなければ。
「――仙崎くん、e5へ行ってください!」
 この、雪乃の前のポーンである仙崎は、奇しくも木村の恋人であった。色恋沙汰に疎く、チェス大会のためにしばしば欠席する雪乃でも知っているくらい、二人は教室内でも所構わず仲睦まじくしては冷やかされていた。
 仙崎は、雪乃が木村を前に進める度に、何かを伝えようと振り返っては必死に視線を送っていた。それがどんな意味なのかは、雪乃には心苦しくも理解できなかった。
 しかし、こうして指示を与えると仙崎は、嬉しそうに「待ってろ木村、今行くぞ」と聞こえる唸り声を発した。それでようやく雪乃は仙崎の意図を知ることが出来た。
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 ずんずんと2マス進んできた仙崎を見て、木村は安心したように微笑む。二人は互いに触れ合おうと手を伸ばすが、マスの境目にある壁に阻まれてしまう。哀しげな表情を浮かべる木村を励ますように、仙崎は何度も何度も頷いていた。そんな恋人たちを茶化す者は、この期に及んでは存在しなかった。
 あくまで、雪乃の陣営の中には、だが。
「ホッホッホッホ! 美しい関係ねェ……アタシ好きよ、そういうの見るの」
 魔王はうっとりと仙崎と木村を見据えてせせら笑う。しかし笑いは次第に嘲りの色に変わっていき、
「――あと、それをぶち壊すのもね♪」
 その瞬間、生徒全員の脳裏に最悪のイメージが想起され、背筋を凍らせた。木村と仙崎の顔が絶望に塗り尽くされたのを見て、魔王は愉悦に腹を捩らせた。
 そして、容赦なく手を下す。
「ホォッホッホ! パンスト兵、彼女をハイグレ人間にしておしまいっ! cxd4!」
 指示を受けたc3のパンスト兵は素早く、仙崎に背を近づけるように盤に座り込んでいる木村に対してハイグレ銃を構える。
「んんんぅっ!」
「きうあっ! きうあああああっ!」
 木村は首を振りながらバリアに壁を押し付け、仙崎はバリアを破ろうと叩き続けるが、両者の間の見えない壁は決して二人を触れさせてはくれなかった。
 最早、為す術はなかった。木村は至近距離からのハイグレ光線を避けられるはずもなく、その身いっぱいに浴びてしまう。
「んうああああああああああっ!」
 ピンクと青にフラッシュする光が木村の制服を溶かしていく。存在を書き換えられていく木村の悲痛な叫びは、仙崎だけでなく全員の心を引裂かんばかりであった。
 時間にして3秒程経過すると、おぞましい光は消え失せた。しかし同時に、
「き……うあ……?」
 光の中で悶えていた木村の姿まで忽然と消えてしまっていたのだった。ハイグレ光線は少なくとも命を奪うものではなかったはず。それなのに木村はいない。まさか魔王はハイグレ人間チェス用に殺人光線を用いていたのか、という懸念が一同の脳裏に過ぎったが、実際はそうではなかった。
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
 チェス盤外、審判役のユリアの横に木村はちゃんと生きていた。ただし、切れ込みの鋭い青のハイレグ水着を着用し、真剣な表情でハイグレポーズを繰り返していたが。
 悔しげに唸る生徒たちを見て、魔王は満悦の表情を見せる。
「ホッホッホ! まずは一人……。これからアンタ達みーんな、ああなっちゃうの♪ お分かり?」
 雪乃は自分の心に罪悪感が満ち満ちていくのを感じた。自分が木村をハイグレ人間にしてしまった。一瞬のうちに洗脳されてしまった彼女の頬に、涙の痕が残っているのが分かる。自分が別の采配を振るっていれば、ああはならなかったかもしれないのに。
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 雪乃の手番だ。しかし駒を動かして対局を続ければ、確実に犠牲者が増えていく。最終的に勝てたとしても、一度はみんなにあの苦しさを味わわせてしまう。そして万一負ければ自分も含めて元の生活には戻れなくなる。雪乃は床にへたり込んで項垂れるだけで、何も考えられなかった。
 そこに魔王が鋭く告げる。
「ネぇまだ? いくら持ち時間設定してないからって、考える素振りもないんじゃ試合放棄と見なすわよ?」
 ……違います、勝負を諦めたわけでは……!
「――うえかあっ!」
 嗚咽混じりに叫んだのは盤の中央、ポーンの仙崎。雪乃が弾かれたように彼と目を合わせると、仙崎は先ほど木村を撃ったポーンのパンスト兵を指さし、涙ながらに訴えていた。「俺に仇を討たせてくれ」と。
 もちろんそれは、次の雪乃の手として自然。だがその位置は木村がそうだったように、相手のクイーンの真正面だ。取ったら確実に取られる。
 しかし仙崎をそのままにしておけば――あるいは仙崎を後ろからポーンで支えたとしても――敵は次に彼をテイクする。どちらにせよ仙崎の命運は決していた。
「うえかあ! あやく!」
 ……これは仙崎くんが望んだこと。私が、命じたのではなく……!
 自分にそう何度も言い聞かせ、雪乃は口を開いた。
「……仙崎くん、そのパンスト兵を……!」
 仙崎は嬉しそうに頷くや否や、斜め前のマスに踏み込んだ。消滅するパンスト兵。そしてすぐに、
「Qxd4!」
 仙崎はアリーシャの命によって放たれたクイーンからの銃撃を、食らった。
「おああああああっ!」
 絶叫の後彼は盤外に転移させられ、茶色のハイグレ人間となって木村の隣でハイグレを繰り返すのだった。
「ハイグレッ! ハイグレッ! ハイグレッ!」
 その顔には一片の悔いもなく満足気で、仇を取らせてくれた雪乃に感謝の意を捧げているようにも思えた。それが、雪乃にとっても少しは救いだった。
 最序盤の激突が終わり、ここから両者は相手を牽制しつつ陣形を整えていくことになる。雪乃はまず、中央を陣取るクイーンをどかす為に右のナイト、猪瀬をc6に跳ばせた。大柄だが小心者の彼女が何度か心配そうに振り向いてくるので心が傷んだが、心配はないと励ました。ポーンが支えてくれている今は、彼女がやられることは考えにくい。
 そして目論見通り、アリーシャはクイーンを1マス後退させる。対して雪乃は、一度相手にプレッシャーを掛けることにした。
「柴野さん、b4へ行ってください」
「う?」
 雪乃のすぐ左のビショップである柴野は、言われた場所が分からなかったのかキョトンと首を傾げた。彼女はクラスでもおバカないじられ役ゆえに、この場においても楽観的だった。
「えっと、右斜めに真っ直ぐ4マス進んでください。それで相手のキングにチェックです」
「んー!」
 了解のニュアンスを含んだ返事をして、言われた通りの位置に移動する柴野。これで次の手でキングの魔王を倒せる、将棋で言う王手を掛けたことになる。アリーシャは迷わず、
「ナイトさんお願い! Nc3!」
 柴野の射線を身を挺して阻む位置に、ナイトを動かして魔王を守った。
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 ここで雪乃に浮かんだ選択肢は2つ。1つは柴野でその、ポーンやクイーンに守られているナイトをテイクすること。ビショップとナイトの価値はほぼ同じのため損得に影響はなく、加えて再びチェックを掛けることが出来る。その代わりに、その次で柴野はハイグレ人間にされてしまうが。
 故に雪乃はもう1つの案を選択した。
「内藤くん、f6へお願いします」
 左のナイトの内藤が、緊張した面持ちながらも素直に右前方に移動する。これで敵ポーンを射程に捉えたことになるが、雪乃の本当の狙いはキャスリングである。
 キャスリングとはキングと左右どちらかのルークとの間に駒がいない、などの複数の条件を満たしている場合に動かせる、特殊な移動方法のことだ。両者の位置を1手で入れ替え、キングの守備陣形を固めることができる。そのために、雪乃は柴野と内藤を前進させたのだった。正直、クラスメートを盾にして自分だけ安全な位置に引きこもるのは心苦しいところではあったが、これはチェスなのだから仕方がない。そう思えるくらいに、雪乃はこの数手の内に気持ちを切り替えて普段の冷静さを取り戻しつつあった。
 アリーシャがテラスに身を乗り出して考え込む間にふと、雪乃は右隣の和美の視線を感じた。二人は小学生の頃に同時にチェスを始めた仲間であり親友だ。雪乃ほどではないが和美も相当な腕前を持っている。そんな彼女が、懐かしむように笑っていた。言葉は無いがその顔は、「いつもの雪乃らしく戦って」と言っているように思えた。
 それで雪乃は、自分の棋風が相手にプレッシャーを掛け続けそのまま叩き伏せる攻め型であることを思い出す。先程、ほぼ無意識のうちに選んだビショップの牽制も、まさにその現れだった。
 ……今から負けたときのことを考えても仕方ありません。勝つために出来ることは何でもしなければ。……例えみんなを犠牲にしてしまっても……勝てば元に戻るのですから……!
「じゃあ、Bf4で」
 結局アリーシャはビショップを前に進めた。これで魔王とa列のルークの間に駒はなくなり、雪乃同様キャスリングをする準備が整う。キャスリングをされてしまえば、魔王が安全圏に逃げると同時にルークが盤中央に効くようになってしまう。それは出来るだけ避けたかった。また、ここでこちらから攻めに行くことで流れも掴めるはず。
 雪乃は最終的な勝利のために、非情な決断をした。
 ……ごめんなさい……。
「柴野さん、斜め前のナイトを取ってください……っ!」
「んっんー」
 柴野は気楽な表情で指示に従い、ぴょんとc3に踏み込んだ。ナイトのパンスト兵が消失し、これでチェック。
 そして魔王の瞳に好奇の光が宿る。
「ホホホ。もう交換を仕掛けてくるなんて、いい覚悟ねェ」
「……駒を戦わせずに、勝負に勝つことは出来ませんから」
「よく解ってるじゃないの。それじゃァ、お望み通りにしましょうか? ――アリーシャ!」
「うんっ! ポーンさん、ビショップの人をハイグレ人間にしちゃって!」
 アリーシャは当然のように、柴野を取った。そこでようやく自分がやられることを知った柴野の呆然とした顔に、容赦なくハイグレ光線が浴びせられた。
「うわわっ!?」
 大の字にもがく彼女の身体は、やがて仙崎の隣に転送された。そして黄色のハイレグ姿になって、楽しげに腕を上下に動かす。
「ハイグレっ! ハイグレっ! ハイグレっ! あははっ、ハイグレ気持ちいー!」
 普段と変わらなさすぎる柴野の屈託のない笑顔が、逆に生徒たちの心を抉っていく。これで犠牲者は三人。生徒たちの中にも、いずれ自分も否応なく三人のようにされるであろう、という実感を伴う予感が渦巻き始めていた。それを、雪乃の勝利を信じているからこそ諦めようと思えるか、何としても嫌だと思うかは、人それぞれであったが。
 雪乃には絶対に勝つという気概はあるが、絶対勝てるとは限らない。相手はロシア最強の少女であり、しかも謎の侵略者までが後ろ盾に就いているのだから。それに勝つためには、何はなくとも全力を出し尽くすことが必要不可欠。
 故に雪乃は、更なる交換の一手を指す。
「奥井さん……二つ前に、進んでください」
「んぅ!?」
 そう驚きながら振り向いた奥井は、雪乃のすぐ右斜め前、d列のポーンだ。長い髪を金に染めて普段から制服も着崩し、教師にも反抗する典型的な思春期の女子である。彼女の取り巻きは学校襲撃時にハイグレ人間と化した。奥井が自分を守るために無理やり盾にしたのだったが、結局自身はこうして連れ去られてゲームの駒にされた。対局が始まってからも自分がハイグレ人間になることだけは嫌だと言うように、何度も雪乃に訴えの睨みを効かせていた。しかし、その時が来てしまった。
 雪乃の指示した手、d5の位置は既にe4のポーンのテリトリー。そこに入っていけと言うのは紛れも無い死亡宣告だ。奥井もチェスはよく知らずとも、ポーンは斜め前の駒を取ることが出来るということくらいはここまでの展開で学習していた。だからこそ前進を拒んだ。
 しかし雪乃としてはこの手を指した後、盤の中央をやや押し返すことが出来ると踏んでいた。そのためには、奥井には犠牲になってもらう必要があるのだ。
「んん! んんう!」
「お願い、します……!」
 必死に首を振り、マス境界のバリアを叩く奥井。雪乃に従えばハイグレ姿にされる。それを突きつけられた奥井が、はいそうしますと素直に動くはずがなかった。抵抗の形相に胸が摘まれる思いがしたが、雪乃には頭を下げることしか出来なかった。
 同時に、周囲の生徒たちの奥井に対する視線が厳しくなっていく。ハイグレ人間は嫌だ、という気持ちは誰しも分かるが、このまま拒んでいては局面は進まず、魔王から一方的に負け判定をされる可能性もあるのだ。あるいは、雪乃が最善手と判断した奥井の前進ではない別の手を選び、そして負けてしまったのならば、間違いなく戦犯は奥井だ。教室では彼女に手を付けられなかった生徒たちも、この場においてはジリジリと奥井を崖っぷちへと追い詰めるプレッシャーを放つ。たじろぐ奥井だが、それでも前には進もうとしなかった。
 遂に雪乃の危惧していた、駒が指示に従ってくれないシチュエーションが発生した。膠着状態に陥った盤上に、審判であるユリアの声が響き渡った。
「ハイグレ! 夢川さんがd5と宣言しましたので、駒は移動されます」
「う、うあ!?」
 直後、奥井の靴が独りでに背面方向、即ち敵陣側に滑りだした。周囲のバリアの方が動き、彼女を無理やり押し進めたのだ。1マス、2マスと徐々に味方陣から遠ざかっていく間、奥井は泣き乱してバリアを叩いた。しかし無情にも、彼女はパンスト兵の眼前に捧げられた。
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「ホッホッホ! 無様なものねェ♪ どォお? 仲間たちにも見捨てられたキモチは?」
 魔王が悪魔の微笑みを浮かべて奥井に語りかける。そして奥井は返事の代わりに猛犬のような瞳で魔王を凝視したが、
「exd5!」
「んがあああああああっ! ――ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
 最後には抵抗虚しく、ポーンに光線を撃たれて紫のハイグレ人間となり果てた。一瞬前までとは打って変わって彼女らしからぬニヤけた表情で、ハイグレポーズの快感を享受するようになってしまった。
 雪乃は小声で「……仇は取ります」と呟いてから、
「Nxd5です。内藤くん、今のポーンを取ってください」
 言われ、内藤はすぐにその通りにした。敵ポーンが盤上から消え去り、これで双方の駒の損得がイーブンに戻る。だがこのナイトによってf4のビショップを狙いつつ、敵クイーンの前進を防ぐことが出来るのだ。この後アリーシャがビショップを動かせば中央制圧成功、それ以外の手ならばビショップテイクをしてから敵にクイーン交換の選択権を与えてやる、という展開になるだろう。まあ、そうなったとしても敵クイーンは逃げるはずだが。
 そして結局アリーシャは守勢に回った。
「しょうがないかぁ……Bd2」
 ビショップがクイーンの影に隠れたことで、雪乃の意見が通った格好となる。
 雪乃は自分がやや有利なのを感じつつ、敵の攻めが一段落ついたこのタイミングで、
「キングサイドキャスリングをします ――未希、こちらへ来てください」
 左隅のルーク、女子サッカー部で『小さな守護神』の異名を持つゴールキーパーにして雪乃の中学時代からの友人、未希を呼んだ。
 クイーンの和美に手を振られ、雪乃は頷いてから2マス左に移動する。そこを未希は通り抜けて、雪乃の右隣で待機する。そしてキングの前にはポーンが三人。敵からすればここは難攻不落の城に見えているだろう。
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 しかしそんな雪乃を右前、f7の位置にいる沙凪が不安げに振り返って見つめていた。三つ編みおさげに丸眼鏡と地味な印象の彼女は、普段からチェス大会などで欠席することの多い雪乃に授業ノートを代わりに執っておいてくれるなど、とても友達思いの性格なのだ。今の視線も、辛い判断を迫られ続ける雪乃への同情が込められているように感じられた。優しく、恩のある沙凪を盾にしてしまうことに、雪乃は心に痛みを感じる。
 ……ごめんなさい……チェックメイトされてしまえば一巻の終わりなのです。私の身を守ることも、負けないためには仕方ありません……。
 芽生える罪悪感を必死に拭い去ろうと、自分にそう言い聞かせる雪乃なのであった。
 序盤戦が終了し、キングはキャスリングされ、そしてクイーンこそ表に出てきているとは言え、盤中央を雪乃のナイト二人に掌握されてしまった格好のアリーシャ。彼女は次の手を熟考つつ真剣な顔でハイグレポーズをとっているようだったが、魔王はそれを見て薄ら笑うだけで特に何も口出しをしなかった。
 雪乃にとっては魔王の実力は、未知数のままだ。アリーシャを負かしたのが本当ならば――いや、あの変わり果てた少女を見れば嘘ではないのだろうが――雪乃とも互角以上の勝負が出来るはず。わざわざ対局前にこちらを騙すような真似をして合議制をねじ込んだというのに、その利点を魔王はほぼ活用していないのだ。そこに、ひたすら不気味さを感じる。
 ……まさか、私とアリーシャという友人同士の対決を面白がっているだけで、勝敗など二の次だとでもいうのでしょうか。それとも、ここぞというときに奇手を繰り出して私を動揺させる作戦のための、布石なのかもしれません。……相手の意図が読めない以上、どんな可能性も考慮に入れなければいけませんね。
 とりあえず現局面で考えうるアリーシャの手は、攻撃的にポーンをc4に進めてナイトを退かせてのクイーン交換、あるいは守備を考えてのキャスリングだ。ただし、a列のルークとのクイーンサイドキャスリングは今すぐ可能ではあるものの、その前のポーンが居ないので完全な囲い足り得ない。それを承知の上でやってくるか、もしくはh列側とのキングサイドキャスリングのために、そちら側のビショップとナイトの整理をしてくるかもしれない。
 数分後、答えは出た。
「はいぐれっ! Be2!」
 ――三番目の読みが的中。ビショップが魔王の前に立ちはだかった。それなら読み筋の内、と雪乃は即指しした。
「Re8です。未希、1つ右に」
「んっ!」
 未希は頷き、今動いたビショップとその後ろの魔王を一直線上に捉える位置についた。これでe2のビショップは『ピン』と呼ばれる『動いたらキングがやられるため絶対に動けない』、釘付け状態にされたことになる。今すぐ状況が激変する、というわけではないにせよ、こちらとしては敵陣にプレッシャーを掛け続けることができる。
 ここはアリーシャにとって再びの悩みどころだったであろう。ここでクイーンサイドキャスリングをして強引にルークの矛先から抜け出すか、あと一手溜めて安全なキングサイドキャスリングにするか。だが、決断に時間は掛からなかった。
「Nf3だよ! はいぐれっ! はいぐれっ!」
 狙いがバレバレであろうと途中で多少状況が変わろうと一度決めた道は突き進む、実にアリーシャらしい一手だと雪乃は感じた。
 ……ハイグレ人間にされてもやはりあなたはアリーシャだ、と言うことですか……!
 ならばこちらも手は抜かない。
「Bg4です。……田場くん、今のナイトの斜め前に行ってください」
 小太りの田場は、進む道すがらに一度雪乃を振り返った。その子羊のように怯えた瞳は、「俺はやられたりしないよな?」という、確認とも懇願とも取れる色を帯びていた。それに対して、雪乃は嘘をついて頷いてまで安心させてやることは、出来なかった。田場が血相を変えて元の位置に駆け戻ろうとするが、まるで伏せたカップに入ったボールであるかのように、見えないバリアにズルズルと引きずられて行くのみであった。
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 雪乃が仕掛けたのは、これまであまり役に立っていなかった遊び駒のビショップを活用しつつ、跳び出してきた敵ナイトへきつい攻撃をするという手。アリーシャがナイトをどうしても生かしたいのであれば元の位置に戻すかg5のマスが妥当だが、どちらにせよ動いたら雪乃にe2を食い破られてクイーンを巻き込んだ大惨事に発展する。よってナイトが動く以外の手。こうなるのもキングのハイグレ魔王が未だにe1にいるからなのだから、次こそキャスリングをして軸をずらしてくるだろう。
 ……そうしたら私は、和美を……。
 しかし、雪乃の読みは外れた。
「h3!」
 アリーシャは、田場を牽制するために端のポーンを1マス前進させた。身の危険を感じ、ギョッとする田場。そして引きつった顔を雪乃たちに向ける。
 それでも雪乃は動揺はしない。むしろこれはチャンスに思えた。ビショップとナイトを交換することに損得はほぼ無い。ビショップを進ませれば形式上はe2への攻めは繋がるのだから、ここで退かせる考えなど攻め型の雪乃には存在しなかった。
「……Bxf3」
「!?」
「必ず助けます。田場くんも、みんなも。……だから今だけ、どうか……許してください……!」
 そう、言うしかなかった。他の生徒たちは黙って俯いたが、田場だけはやはり命令を不服と足掻いていた。必死に床に踏ん張っていたが、やがて尻もちをついて引きずられる。
 そうしてナイトのパンスト兵が田場の領域によって消されたのを見て、魔王がまたしても茶々を入れてくる。
「可哀想なコ……。別にこの男のコを犠牲にしなくたって、戦う手はあるのに。あァ……勝つために仲間を売るなんて、まさに悪魔……♪」
 雪乃をこうしてなじり、黒サイドの士気を落とすことこそが、キャスリングではなくポーンを進ませた理由だったのだろうか。思惑に乗るのは不本意ながらも雪乃は声を荒らげずにはいられなかった。
「――どちらが悪魔ですか! こんなゲームを仕掛けておきながら……!」
「アタシは悪魔なんかじゃなァいワ。アタシは、ま・お・う♪」
 ウインクを飛ばしてハイグレ魔王が挑発する。それに反論するための息を吸い込んだところで、
「ハイグレ魔王さまに従えるんだから、ちゃんと感謝しなさいよねっ! Qxf3!」
「う、うぎゃああぁぁ! ――ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
 アリーシャは容赦なく、クイーンで田場を洗脳してしまうのだった。田場は似つかわしくないオレンジのハイレグ一枚をまとって、盤外でキビキビとハイグレ人間の動きをし始めた。
『哀れな……』という嫌厭感が場を包むが、雪乃はくよくよとしていられない。一刻も早く、勝負に決着を付けなければいけないから。
「……猪瀬さん、内藤くんの左隣に。Ne5です」
「う、うん……」
 猪瀬は田場とは違い反抗こそしなかったが、移動の脚はナイトの俊敏なイメージとは程遠くとても重かった。
 アリーシャが田場をクイーンで取ったのは、未だにルークによってe2のビショップがピン状態にされているからだった。とは言えクイーンは、今でもe2の守りに付いている。それを剥がさんとしたのが、雪乃のNe5だ。盤上中央に肩を並べる二人の騎士が、周辺に敵駒の生存を許さない。
 故に、アリーシャは更にクイーンを端に逃さなければならなくなった。
「Qg3、かなぁ」
「Nc4」
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 一瞬塞がれていたルークによるビショップのピンが、再発動する。と同時に、今度はd列のもう一体のビショップも、ナイトの猪瀬に狙われる。雪乃のバックランク、即ち最も手前の横列の中央には、ルークとクイーンという直線に効く強力な駒たちが控えているのに比べて、アリーシャのキングを守るビショップたちは斜めにしか動けない。
 更に、猪瀬にビショップを取られた場合、キング自ら猪瀬を取り返さなければいけなくなり、するとクイーンと同じ縦列に踏み入ることになってしまうのだ。よってこのビショップは取られてはいけない。
 アリーシャは自分の不利を自覚しつつも、双方の守り駒を一つずつ減らさんとする。
「び、Bg5!」
 そうしてビショップが動いたg5地点は、白のクイーンが効いているのに加えて、黒のクイーン、和美を直接刺すことが出来る位置でもあった。
 雪乃は逡巡する。クイーンの駒は強力すぎるゆえに、無闇に動かすべきではないというのが基本だ。それにどうせ現局面は、クイーンは初期配置のままでも十分役割を果たせている。ややキングの守りが薄くなるが、ポーンをf6に進めせてクイーンを守るべきではないだろうか。
 そう考える雪乃の瞳が、無意識に和美を向いた。
 ……クイーンを攻めに使ってしまうと、いずれ和美は……!
 味方にいると頼もしい駒は、敵に回すと恐ろしい駒と同義。チェスにおいて大概、片方のクイーンはもう片方のクイーンと命運を共にするものである。雪乃はここでクイーンを動かした場合の展開を軽く読んでみたが、まず間違いなくすぐにクイーン交換が発生してしまうように思えた。
 それは、和美のハイグレ人間化を意味する。
 クラスメートを次々使い捨てた自分が今更大親友だけは助けたい、などとのたまう資格は無いと、雪乃は自覚していた。
 ……ですが……どうしても和美だけはあんな姿にさせたくありません……!
 すると視線に気付いた和美が、背筋を伸ばして優しく微笑み掛けてきた。音としての声は聞こえない。しかし、彼女の心の声は確かに雪乃の胸に届いた。
 ――雪乃の思う通りにして。覚悟は、できてるから。
 諦観を伴う儚い笑み。長年雪乃の戦友を務めた和美には、雪乃の読みが想像できているのだった。それに雪乃は思わず、眼の奥からこみ上げてくるものを抑えることが出来なくなった。
「あ……う……!」
 表情を崩しながらも、頭だけは高速で回転させる。クイーンを動かすならばa5しかない。ビショップがいなくなったことで、今度はa5からe1までの斜めの列がやや手薄になっているのだ。そこから最善手で突き込んで行けば、更に優勢が見えてくる。――代わりに途中でクイーンが盤上から姿を消すが。
 ……私は、和美を……。
「ちょっとォ、早くしてくれないカシラぁ?」
 魔王の急かしに、決断までもう時間がないことを悟る雪乃。
 もはや覚悟を決めるしかない。守るのではなく、攻めて勝つ。それが自分の流儀なのだから。
「――和美! a5へ!」
 震える声に和美は満足気に大きく頷き、力強い足取りで斜めに延びる黒い道を歩んでいった。
「ホッホッホ! いいの雪乃? 本当に後悔しない? 今なら待ったも――」
「しません! 私は……必ず勝ちますから」
 雪乃に睨み返された魔王は、
「あーァ怖い怖い。ねェどう思う、アリーシャ?」
 テラスのアリーシャを振り仰いだ。すると少女は満面の笑みで大股を開く。
「はいぐれっ! はいぐれっ! 雪乃がいくら頑張ったって、絶対わたしと魔王さまには勝てないもん!」
「ホホホ! よく分かってるわね! ――さぁ続きよアリーシャ。この分からず屋さんたちを懲らしめておしまい!」
「はいぐれっ!」
 可愛らしく華奢な体が、何度も元気にハイグレポーズをとる。
 ……必ず救ってみせます、アリーシャ。そしてみんなも。
 それからアリーシャが選んだのは、威勢の良い台詞とは裏腹に慎重で冷静な一手だった。
「魔王さま、今は危ないから隠れててね。Kf1!」
「そうね。やっぱりアナタは強いわ。よく盤上が見えてる」
「ま、魔王さまに褒められちゃった……えへへ、はいぐれっ! はいぐれっ!」
 アリーシャが顔を赤らめ舞い上がる間に、ハイグレ魔王は一歩隣のマスへ移動した。
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 結局、アリーシャはキャスリングを使用しないことを選択した。現在の局面でキングサイドキャスリングをしてしまうと、キングがg1、ルークがf1に移動することになる。すると、先程から要点として何度も名前の挙がっていたe2のビショップが、雪乃のルークによって簡単に取られてしまうことになる。それを見落とさなかったアリーシャだったからこそ、e2に効きを残しつつクイーンラインから身をずらす手に決めたのだった。
 これでe2のビショップはピンから解放され、自由に動けるようになったと言える。そうなった場合一番狙いたいと考えているのは、斜め直線上に誰にも守られずに存在しているナイトの猪瀬だろう。雪乃はそれを防ぐため、もう一人のルークを猪瀬の守りにつけた。
「Rac8。宇梶くん、2マス左に来てください」
 言われ、宇梶はやっと出番か、というようにさらりと指示に従う。
 ここでのアリーシャの次の手は、沢山の選択肢があるだろう。攻めるか、守るか。どちらのビショップを、あるいはルークを、退くか、出すか。
 しかしどう指されようとも、雪乃は次にc3のポーンを倒そうと考えていた。内藤で取るか、和美で取るかは、アリーシャの出方次第。彼女が悩んでいる間にいくつかの候補を決めておき、どんなパターンが来ても迷わずに指せるよう、覚悟を固める。
 ……例え和美を進めることになっても、ならなくても。私が目指すのは、勝利だけです……!
 そして、アリーシャが選んだのは、
「――!」
 声は、雪乃の耳には音として届かなかった。ただ、こちらに向かってくるビショップが、次に自分が指すべき手を教えてくれた。
 雪乃はあらん限りの声を絞り出して――親友を、捧げた。
「和美っ! ……Qxc3っ!」
 それが雪乃の答え。先程柴野を撃ったc3のポーンを、穏やかな表情をした和美がテイクして消し去った。その瞬間を、雪乃は泣き崩れて見ることが出来なかった。
 c3に移動したクイーンの和美は、斜めに動けばルークを、横に動けばクイーンを取れる位置にいる。つまりアリーシャは和美を一手たりとも放置するわけにはいかない。例え黒のクイーンを取った白のクイーンが、黒のナイトによってすぐさまテイクされることになろうとも。
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 アリーシャは息を吸い込む。きっとあのクイーンは雪乃の大切な友達なんだろう、それを分かった上で、
「はいぐれっ! 行っくよぉっ! Qxc3!」
 クイーンがハイグレ人間になった瞬間、雪乃はどんな顔をするだろうか、と心を弾ませて。
 ハイグレ魔王も、これから盤上で起こる悲劇の一幕を思い、悦楽に顔を歪ませた。
「ホォーッホッホッホ! これは見ものネェん♪ いいこと? アンタたち人間も目ェかっぽじってよく見ときなさい。こんな面白いトコが見られるなら、クイーンの一人や二人安いものだワ♪」
「……!」
 生き残っている生徒たちは一様に喉を詰まらせた。みな、チェスの腕前に関わらず和美の駒の重要性は既に理解していたし、そうでなくとも和美は自分たちのクラスメート、そして雪乃と仲の良いことももちろん知っている。そもそも声を上げられる状態ではないにせよ、誰も雪乃や和美に掛ける言葉を見つけられなかった。それでも視線は和美に集中してしまうが。
 雪乃が顔も上げずにうずくまっている間に、クイーン役のパンスト兵は光線銃の照準を和美に合わせつつゆっくりと歩み寄っていく。和美は自分の運命を悟り、あえてパンスト兵に向き直って真っすぐに見据えた。直立しリラックスした体勢からは、抵抗の素振りは感じられない。
「ほら雪乃? 親友の最期なのよォ? アンタが看取ってやんなくてどうするのよ」
 魔王の呼びかけにしかし、反応はない。
「……なァんだ、拍子抜けね。もっと泣き乱れるかと思ったのに」
 和美の方も、親友に売られたことを悲しんでいるようにも見えず、ただただあるがままを受け入れようとしているかのようだった。魔王はそれが大層気に食わない。まるで必ず雪乃が勝つと信じてきっているようだったから。
 ――ならばその信念を、めちゃくちゃに砕いてしまうまで。
 ハイグレ魔王はその青い腕をマントを翻して突き出し、和美の隣のマスまで接近したクイーンに命じた。
「さァ! そのコを身も心もハイグレ人間におしっ!」
 直後、銃から閃光が迸る。それを目の当たりにした和美は、遂に心の奥底に封じ込めていた恐怖に屈し、親友に助けを求める哀願の視線を送ってしまった。
 しかしそれが雪乃に届く前に、ピンクの光は僅かな距離を直進して和美の全身を包み込んだ。
「あう……あああああああああああっ!」
 雪乃を思ってか一瞬悲鳴を上げまいと口をつぐんだが、結局は大の字に広がる四肢同様に開いて絶叫を絞り出してしまうのだった。
 ピンクと水色に入れ替わる光の更衣室の中で、和美の制服は似合わないものと判断されて形を失っていく。代わりに着せられるのは、皮膚にぴったりと張り付き心地良く締めあげる、一昔前の女性用水着。
 これこそがお前には相応しい、と押し付けられた価値観を、和美は必死に否定しようとする。だが身体がハイレグの着心地を憶えてしまう。恥ずかしさや申し訳無さなどかなぐり捨てたくなるような魅力を、植え付けてくる。
 更には脳内に絶え間なく囁いてくる声があった。――お前も早くハイグレ人間になれ。魔王さまはハイグレ人間を支配する素晴らしいお方。ハイグレを素直に受け入れれば幸せになれる。人間は皆速やかにハイグレ人間になるべき。ハイグレを着ることが気持ちいいのならばそれが悪であるはずがない。ハイグレに抵抗することこそ悪。魔王さまは悪しき人間に正しい姿を教えてくださっているだけなのだ。そのありがたい教えを無視しあまつさえハイグレ人間を人間に戻そうと目論む者はハイグレの敵。敵は悪。悪は雪乃――
 徐々に刷り込まれていくハイグレ人間としての意識に抗う術はない。和美の信念は声の一句一句によって塗り替えられていき、服装もハイグレ人間のそれに完全に変貌してしまう。
 そうして時間にしてわずか数秒の洗脳が完了し、光と共に和美の肉体もその場から消える。代わりにチェス盤外、ハイグレ人間たちの並ぶ列に同じ格好のもう一人が加わった。
「ハイグレッ! ハイグレッ! ハイグレッ!」
 雪乃は悪であり、ハイグレをすることこそが正しいのだと心の底から考えている、真っ赤なハイレグのハイグレ人間和美が。
「ハイグレッ! ねえ、まだ戦うつもりなの雪乃?」
「……」
「ほら、今すぐ『参りました』って言うだけだよ? 魔王さまに逆らう雪乃なんて、わたしは大嫌いだからね。――でも一つだけは感謝してるよ。……雪乃、わたしをハイグレ人間にしてくれて本当にありがと。今わたし、すごく幸せだよ。ハイグレッ! ハイグレッ!」
 身体に水着を食い込ませて笑う、変わり果てた和美の言葉が雪乃に突き刺さる。
 更にもう一人の親友も追い打ちを掛けてくる。
「はいぐれっ! はいぐれっ! どんどんハイグレ人間が増えてて嬉しいけど……やっぱりわたし、ユキノとハイグレがしたいなぁ。ね、早くハイグレになろうよっ、ユーキーノっ!」
 雪うさぎのようにぴょんぴょんと跳ねるアリーシャも、思考を捻じ曲げられたことすら忘れて魔王の下僕として雪乃をハイグレの道に勧誘する。
 人間は次々減っていく。これで盤上の16人の内、3分の1以上がハイグレ人間に転向した。
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
「ハイグレッ! ハイグレッ! ハイグレッ!」
「はいぐれ! はいぐれ! はいぐれ!」
 真っ暗な空間に響くかつての友人たちの声を聞きながら、やがて雪乃はおもむろに立ち上がった。
 そして瞳に闘志を滾らせて、
「――Ncx3!」
 戦いは尚も続いていく。


 互いにクイーンという大きな攻防の要を失い、中盤戦は駒をぶつけあうことでしか進まなくなっていった。
 アリーシャは次にビショップで黒のナイトの猪瀬をテイクし、それを更に雪乃がルークの宇梶で取り返す。
 雪乃はナイトの内藤でアリーシャのもう一体のビショップを追いかけつつ、その2つを交換に持ち込んだ。24手目の黒番で、チェス盤上からナイトとビショップが完全にいなくなったのだった。残る駒はそれぞれキングとルーク2つ、そして雪乃はポーン5つに対してアリーシャが4つ。駒の量、キングの囲い、ルークの位置、いずれにおいても優勢なのは雪乃である。
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 チェスでの勝利条件は相手のキングをチェックメイトすることだが、そのためにはある程度の戦力が要る。その「ある程度」が、現在ではどちらもギリギリしか保有していない。そこで重要なのは、最弱の駒ポーンの存在。なぜならばポーンには『プロモーション』、即ち将棋で言う『成り』が存在するからだ。ポーンは敵陣最奥行に踏み入ると、ポーンとキング以外のいずれの駒にも昇格することが出来る。プロモーションによってクイーンを作れれば戦力は超大幅に増強され、勝利は揺るぎないものになるのだ。
 故にここからはルークとキングが協力して相手の駒を減らしつつ、隙を窺ってポーンを進めながら、相手のポーンの進軍も妨害していく、という展開になっていく。
 数手後、早くも互いのルークが交換される。じわりじわりと右側のポーンを前進させる雪乃に対し、アリーシャはキング自ら体を張ってプロモーションを阻止する。キングの駒は八方に動けるとはいえそれぞれ1マスのみだが、ポーンに対してはそれでも強力なバリアとなり得るのだ。
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 右側の状況が膠着すると、今度は雪乃も自分自身を活用しながら左側の突破を試みる。ルークの未希と協力して、残ったポーンを何とか敵陣奥まで運ぼうとする。途中右側に動きがあり、結果的にどちらのポーンも相打ちとなって白キングのハイグレ魔王のみが生き残った。局所戦としては雪乃の負けかもしれないが、直後にアリーシャ側のポーンを全滅せしめることに成功する。これでアリーシャはキングとルークのみで、雪乃の残り4つの駒と戦わなければならなくなった。
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 彼我の戦力差は決定的に明らか。肩で息をしながら戦場を見下ろすアリーシャに、最後のポーンを自ら討ち取ったばかりの雪乃が声高に叫ぶ。
「アリーシャ! もういいでしょう!? 勝負は付きました。早く皆を元に――」
「――違う! まだ終わってないっ! 絶対……諦めないもん!」
 テラスの柵をダンと殴りつけたハイグレ人間の少女は、悔しさに大きな瞳に涙を浮かべていた。そして、
「Rc5っ! はいぐれぇっ! はいぐれぇっ!」
 震える声で尚も、雪乃のポーンを削ろうとしてきた。そんなアリーシャを魔王は振り仰ぎ、賞賛してみせた。
「ホッホッホ! そうよアリーシャ、それでこそアタシのシモベ♪ 敗北が決まるその瞬間まで、どれだけ見苦しくても足掻いて足掻いて、足掻き抜きなさい。強い心の持ち主にしか、勝利は訪れないのよォ♪」
「う、うんっ! はいぐれっ! はいぐれっ! はいぐれっ!」
 魔王の激励に、アリーシャの元気が戻ってくる。雪乃も、魔王の言った勝者論に同意しないわけではない。が、敵が使っているのを聞くと途端に陳腐に思えてくるのは何故だろうか。
 そんなことを思いつつも、
 ……それなら一切容赦はしません。チェックメイトの瞬間まで、付き合ってもらうだけです!
 雪乃はポーンを更に進める。ルークで追うアリーシャ。そうして3手後、雪乃がh2に動く。
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 この次のアリーシャの対応で、勝負の決着のつき方が決まると言っても過言ではない。もしアリーシャのルークが現在f3にいるポーンの沙凪をテイクすれば、それをポーンの浜崎でテイクして、アリーシャの駒はキング1つのみとなる。その時点で少なくとも雪乃の負けはなくなり、あとは引き分けにされないように魔王を追い詰めていくだけだ。
 そしてアリーシャがごく僅かな勝利の可能性を諦めずにあえてルークを生存させると、沙凪のプロモーション成功が確定する。沙凪はクイーンとなり、あっという間に敵のキングをチェックメイトしてしまうだろう。こうなっても勝利は揺るがない。雪乃が余程の大悪手を差さない限りは。
 そんな状況でアリーシャは、
「Rc4!」
 結局沙凪を撃たなかった。ならばと雪乃は沙凪を進める。
「……f2です」
 次手。沙凪はもうプロモーションが確定したが、アリーシャはもう1つのポーンまでもを成らせるつもりはない、とばかりにルークに命じる。
「Rxg4! これであと3人!」
「きゃああああああ! ――ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
 浜崎はプロモーションへの道半ばにして、ハイグレ光線を浴びて13人目の犠牲者と成り果ててしまった。ずらりと並んだ元白の駒たちの隣に、緑の水着をまとった彼女が加わる。
 盤に残った人間は、雪乃と沙凪と、ルークの未希。采配を振るったのは雪乃自身とはいえ、未希も小さな守護神の異名に違わずよくここまで沙凪を守り切ってくれた、と思った。
 だから雪乃は、横に並ぶ二人に言った。
「未希、沙凪。ここまで来られたのも二人のお陰です。本当にありがとうございました」
 突拍子もなく礼を述べる雪乃に、未希と沙凪は何か悪い展開にでもなってしまったのかと驚く。しかし、そうではなかった。
「……これまでたくさんの友人をハイグレ人間にさせてしまった私を、今更信じて欲しいだなんて無理な相談でしょう。ですが、これだけは信じてください。――私は最後まで決して油断しません。そしてあなたたち二人と共に魔王を倒し、みんなを解放します。必ず……!」
 決意表明に、未希は笑顔を作り沙凪は大きく頷いた。雪乃は安心して微笑む。そして、プロモーションの時がやって来た。
「――f1=Qっ!」
 沙凪が一歩前進した瞬間、f1のマスを輝く黒い光が埋め尽くした。やがてそれが晴れると沙凪の頭にはポーンの丸帽子ではなく、かつて和美がかぶっていたのと同じ漆黒のティアラが戴かれた。地味な見た目にティアラの豪奢さが飾り付けられた彼女は、まさに最弱から最強へと昇格したに相応しい姿となった。
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 目の前でクイーンを作られ忌々しげに沙凪を睨むアリーシャが、それでも攻撃を仕掛けてくる。
「る、Rh4!」
 チェックを受けた雪乃はしかし冷静に、ルークの死角に潜り込んでやる。
「Kg3」
「Rb4……!」
 アリーシャは攻撃を諦め、ルークを魔王の護衛に付ける。
 しかしもう、いかなる対策も沙凪と未希の前には無意味。二人を用いたチェックメイトまでの手順が、雪乃の頭の中に構成されていく。読み抜けがないことを何度も注意深く確認し、告げる。
「Ra2。チェック」
 未希が盤最右列に走っていく。直線で2マス先にいる魔王に、これで王手となる。魔王を逃がせるマスは、1つしかない。
「うう、Kb3……っ」
「Rd2」
 その行き先を先回りして封じる。最早終局までは一本道。アリーシャもそれが分かっているのだろう、何度も何度も精神を落ち着かせるために必死にハイグレポーズを取っていた。
「は、はいぐれっ、はいぐれっ! ……キ、Ka4!」
 それはキングが一手前の場所に戻る、という意味であった。これではアリーシャは一手を無駄にしたのと同じだ。それならば――雪乃の勝ちだ。
「これで終わりです。……沙凪、お願いします。Qa6、チェック」
 先ほどルークを寄せたのが、アリーシャにとってはキングの逃げ場を塞ぐことになってしまった。以下、白Kb3、黒Qa2、白Kc3、黒Qc2まででチェックメイトとなる。引き分けも何もない、後手番においての完全勝利。
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 雪乃の宣言に混じっていた安堵の声色に気付たため、「うん」と頷いてから所定の位置に歩いて行く沙凪の足取りは軽かった。真っすぐに進み、魔王と同じa列に立つ。
 それを見届けてから、雪乃はアリーシャを見上げた。
「どうしますか、アリーシャ。投了しますか? それとも最後まで続けますか?」
「あぅ……はいぐれ、はいぐれ……」
 涙を零しながら水着の切れ込みをなぞるアリーシャの姿は、見ていて心底哀れに思えてならなかった。しかし、そんな悪夢からももうすぐ解放してあげられる。雪乃はもう一度、強く迫る。
「さぁ、アリーシャ!」
 だが、代わりに答えたのはアリーシャではなかった。
「――続けるに決ってるでしょ。勝負はまだ、ついてないワ♪」
 ここまでしばらく沈黙を保っていた魔王が、窮地においてなおも妖艶な笑みを浮かべている。
「ですがチェックメイトは確実です。あなた方に逆転はありません。……それとも、私がミスをするとでも?」
「しないでしょうね。アナタの強さはじゅーぶん分かったわ、チェスの腕も、心の強さも。人間にしとくには惜しいくらいヨ。どォ? アタシの部下にならない?」
「お褒めの言葉はいただきますが、お断りします」
 そんな問答をしている余裕は無い。雪乃は毅然と断り、そして魔王を睨みつけて告げた。
「ハイグレ魔王、あなたの負けです。今すぐアリーシャやみんな、そして地球の人々を元に戻しなさい」
 魔王はぎりぎりと奥歯を噛み鳴らすも、やがてガクリと項垂れた。
「分かったワ、雪乃……アタシたちの負けだワ……」
 敗北宣言。これで地球は救われる。そう雪乃も沙凪も未希も喜びかけたが。
 魔王は埴輪の如きポーズになって、目を弓なりに曲げて野太い声を出した。
「――なァーんて言うと思ったら大間違いよォ!」
「は……!?」
 思わぬ返答に絶句する雪乃の目の前で、ハイグレ魔王はマントを脱ぎ捨てピンクのハイレグ一枚の姿を晒した。そして盤上を沙凪の方向へと悠々と歩きだす。しかしどうせキングは沙凪のマスには届かない。
 ――そのはずなのに、あろうことか魔王は沙凪に向けて、輝く手のひらを向けた。
「――っ!?」
 驚愕して硬直する沙凪。眼鏡の奥の見開かれた瞳は次の瞬間、恐怖の光線一色に塗れた。
「いやああああああああああっ!」
「さ、沙凪ぁぁっ!」
「ハイグレっ! ハイグレっ! ハイグレっ! ハイグレ気持ちいい……!」
 悲鳴の尾が切れた直後には沙凪は盤外で、灰色のハイレグ姿でおさげを振り乱してハイグレポーズをとるようになってしまっていた。その蕩けた表情の中に、恐怖や苦痛は微塵もない。
 雪乃は、この掟破りの仕打ちに当然激昂する。拳を強く握り、吠える。
「あなたはキングでしょう! どうして2マス先の沙凪を! こんなの反則ですっ!」
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 今魔王の立っているのはa6のマス。明らかにキングの移動範囲を超えている。
 それに魔王は下卑た笑みを浮かべ、
「反則じゃなーいワよ何言ってんの? アタシはただのキングじゃないの。オ・カ・マ♪」  
 自身の額に嵌っている装飾具を三度指さした。指の先にあるのは滑らかな輝きを放つ白いティアラ。そこで雪乃は息を呑む。
 ……あれは和美や沙凪のかぶっていたものと同じ……。ということは、まさか……!
「やァっと気付いたのかしら? アタシは単なるキングとして居たつもりはないワ。だーってアタシゃキングである前にオカマだもの、クイーンとして動けてもいィじゃない♪」
「汚い……っ!」
「卑怯千万! 勝ちゃいいのよォ勝ちゃア! ――さあ来なさい雪乃! 詰ませるものなら詰ませてみなさいっ!」
 ヒャッヒャッヒャ! と笑い声までも怪物のように狂うハイグレ魔王。雪乃は下衆のような挑発に、不意打ちで沙凪を撃ったことに、何よりチェスというゲーム自体を冒涜されたことに激しい怒りを覚える。
 ……こんなものはチェスではありません! 絶対に許しません……正々堂々と、決着を……!
 そう使命感に燃えるがしかし、戦力はキングの雪乃とルークの未希のみ。対して魔王側は、クイーンの機動力を持つキングとルーク。そんな文字通り反則級の動きをするキングを、こんな戦力でチェックメイトできるはずはない。
 だとしても、戦わなければいけない。雪乃は、状況がよく飲み込めていない未希を、側に呼び戻した。
「Rf2!」
 駆け戻ってきた小さな守護神の瞳は、戸惑いに揺れていた。「勝ったはずじゃないのか? どうして沙凪はやられたんだ?」、そう訊ねたいのだということは、エスパーでなくても分かる。
「……地球を侵略するような者が平等なルールで戦ってくれるはずがなかったんです。勝負を持ちかけられたとき何も疑わなかった、私が愚かでした……!」
 勝利の予感は一瞬で敗北の足音に変わり、後悔が胸の中を駆け巡る。魔王がトンデモルールを用いる限りは、雪乃に勝機など一寸たりとも存在しないと理屈では分かっているから。
 未希は、チェスのルールはあまり分からずとも、ハイグレ魔王の所業がどれほど悪どいものかは理解した。そして戦意を失いかけている黒のキングに、自信いっぱいの笑顔でエールを送った。
「未希……!」
 それによって、雪乃も力を取り戻す。
 ……諦めません。まだ、負けたわけではありませんから……!
 テラスの床に尻を付きながらも魔王に尊敬の眼差しを送るアリーシャや、茶番劇の犠牲となり今やハイグレに心酔しているクラスメートたちを、救う方法が。
 雪乃は戦うことを決めた。が、プライドなど欠片もない魔王の手に緩みは一切無かった。
「ホッホッホ! 行くわよ、アタシg6!」
「Kf3!」
「アタシf6!」
「Ke2!」
y66b.jpg
 クイーンの能力を併せ持つ魔王による遠距離からの連続チェックに、雪乃はただひたすら射線をかわすことしか出来ない。
「そらそらどォした! 逃げてばかりじゃツマラナイじゃないっ! ……ま、そっちがその気なら、アタシはh4に行くケド」
 h4の斜め2つ前にいるのは未希である。だがここでルークの未希を失うわけにはいかない。
「き、Ke1……!」
「Rb1よォ!」
 ノータイムで差された、退路封じの手。それによって雪乃の脳裏に、どことなくつい先ほどの展開がデジャヴのように蘇る。とは言え今回は追い詰める側ではなく、追い詰められる側だが。
「Ke2……です」
 一手前と同じ位置に戻る雪乃。逃げ道は最早ここしか残っていないのだ。
 だが、それ以上に。
「アタシ! e! 4っ!」
 ……手詰まり、ですね……。
「K、d2……」
「――っ!」
 その場でずっと雪乃の逃走劇を眺めていることしか出来なかった未希は、とうとう雪乃が自分の側を離れていってしまうのを見て、声にならない声を上げた。
y69b.jpg
「……ごめんなさい……もう未希を守ることも、守られることも出来ません……っ!」
 d2に移動してしまってから、雪乃は肩を震わせて呟いた。未希は胸に形の無い衝撃を受けて、それで自分たちの敗北を悟った。
 雪乃は、思えば自分も相当諦め悪くズルズルと続けてしまった、と振り返る。この後は白がRb2で完全なスキュア――キングの真後ろにルークがいて、キングが攻撃を避けるとルークが取られてしまう串刺し状態――が成立し、未希が確実にテイクされる。そして八方にしか動けない通常のキング1つでは勝利は不可能。
 これ以上手を引き延ばしても勝機はゼロ。それに、最後の味方を失ってまで僅かに延命して、独り無様に盤の上を逃げ回りたくなんてない。
 ……どうせ、どうやっても負けてしまうのなら。
 勝負を続ける意味など、ないではないか。
「ホッホッホ! トドメよ――Rb2!」
 ルークのパンスト兵は魔王の命に従って、生き残りの二人を貫くように銃を構える。これで終わりだった。
 敗北の二文字にのしかかられた雪乃の中に、様々な思いが去来する。
 ……負けたんですね、私は……。
 一度は勝った試合だった。それなのに、チェスのルールも誇りも持ち合わせていないハイグレ魔王に全てを滅茶苦茶にされた。
 ……けれど、私は1人のチェスプレイヤーとして、恥ずかしくない戦いをすることが出来たと思います。
 そう思えば不思議と、心は穏やかになった。涙も出なかった。
 ただし、大きな大きな心残りは。
 ……ごめんなさい、みんな。私、勝てませんでした。
 アリーシャも、和美も、沙凪も、誰も彼も救うことが出来なかった。そして投了すれば、自分と未希もハイレグ水着姿に変えられてしまう。人間は、負けたのだ。
 雪乃は、たった1つの約束をも守れなかった自分の不甲斐なさを、ハイグレ人間となった友人たちに詫びる。
 ……私もみんなと同じハイグレ人間になったら……許して、くれますか……?
「ハイグレ!! ハイグレ!! ハイグレ!!」
 ああしてハイレグ水着を着て、ずっと仲間と一緒に無心にハイグレに打ち込むのも、意外と悪くないのではないか。そう、雪乃には思えてきてしまった。
 敗北を受け入れることは即ち、ハイグレを受け入れること。その2つが極限状態の雪乃にとっては同義であったからこその、心境の変化だった。
 ……こんな私でも、みんなと一緒にハイグレをする資格は、あるでしょうか……?
 問いの答えは、「ハイグレ!」という掛け声でしか返ってこない。それでも雪乃は、どうしてか救われた気持ちになる。
 そんな不思議な心地に包まれつつ、虚ろな瞳をした雪乃は、
「――ありません。私の、負けです」
 ポツリと、だが確かに宣言した。それを耳にした未希と魔王は、全く正反対の反応をする。
「うぅ……!」
「ホォーッホッホッホ! 最っ高の暇つぶしだったワよ雪乃! 今のアナタ、とっても美しいわ♪」
 何もかもを諦めた顔。諦めの先に、何かを見出している顔。少女の脆く儚い表情に、ハイグレ魔王は打ち震えんほどの感動を見出した。
 そこで審判が、対局の終了を朗々と宣言する。
「まで。夢川さんの投了により、魔王様・アリーシャ組の勝利となります。ハイグレ!」
「魔王さまっ! やったね!」
 テラスから、アリーシャの弾む声が飛ぶ。魔王は、一度は敗勢にまで追い込まれた失態を叱責もせず、彼女の手腕を称えた。
「ええ。けど、アナタもよく頑張ったワ。これはアタシとアリーシャ、2人で得た勝利よ♪」
「う、うんっ! はいぐれっ! はいぐれっ!」
「――さて」
 気力を使い果たし人形のように立ち尽くす雪乃に、魔王は近づいていく。試合が終わったので、マス境界の障壁はなくなったようである。
 未希はそのことに気付いて、一も二も無く床を蹴って雪乃の前に立ちはだかった。親友には決して手を触れさせるまいと、小さな身体を目一杯広げる。
「おどきなさい」
「んう!」
 首を振り、眼光を飛ばす未希。その反抗的な瞳に苛立ちを覚えた魔王は、腕で未希の細身を右側へ薙ぎ払った。勢い良く肩を押され、バランスを崩してどさりと倒れる。
「……パンスト兵!」
 すると魔王側の生き残りであるルークのパンスト兵が、素早く光線銃を未希に撃ち込んだ。
「うわあああああっ!」
 床を舐めながらピンクの光を浴びせられた未希は、身を反らせてもがく。そして数秒後彼女は、その場でピンクのハイグレ人間に生まれ変わった。パッと起き上がると魔王と雪乃の方を向き直り、変わらぬ真剣さで、
「ハイグレッ! ハイグレッ! ハイグレッ!」
 腰を落としてハイグレ人間の挨拶を繰り返した。そんな彼女に魔王が訊ねる。
「うふふ♪ 一応聞いておこうかしら。これからアタシ、雪乃をハイグレ人間にするケド……構わない?」
「ハイグレッ! もちろんだよ魔王さま! 早く雪乃にもハイグレを着せてあげてくれ! ハイグレッ!」
 余りの態度の変わり様に我ながら可笑しくなってしまった魔王は、一頻り笑い声を上げる。
 そうして未希の洗脳にも全く無反応だった雪乃の前に、今度こそ立つ。
「それじゃァ許可も出たし始めましょうか、雪乃♪」
「……」
「心配しなくていいワ。転向は一瞬で終わる。その後は晴れてみんなと同じ、ハイグレ人間になれる。みんなも歓迎してくれるワ♪」
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
 ハイグレ魔王とハイグレ人間たちの声に、リアクションが取れない雪乃。しかし心の中では魔王の言葉に、とても安堵していた。
 ……こんな愚かな私でも、ハイグレ人間になって……いいんですね……!
 世界と友人を賭けた大勝負に負けた罪悪感が、薄れていく。赦しを受けたことで緊張から解き放たれ、雪乃はハイグレ魔王に感謝の念さえ覚えた。
 そんな哀れな人間の少女の生が、今終わる。
「さ、雪乃。あなたもハイグレ人間におなりなさァい……♪」
 ハイグレ魔王の輝く手のひらが、雪乃のキングの王冠と額の間あたりにかざされる。そして収束したピンクの光線が、雪乃に注ぎ込まれた。
「あ、ああ……ああああああ……!」
 身体を伝う痺れに似た感覚に、か細い悲鳴を上げる。初めは苦痛のように思えたそれも、すぐに快感へと変わっていった。同時並行で制服も形を失っていき、代わりに彼女の身体をぴたりと包み込む水着が現れる。その入れ替わりの感覚に耐え切れず、雪乃は「んぅぁ……っ!」と一息漏らす。
 やがて雪乃は、烏のように艶のある黒い色をしたハイレグ水着だけを身に着けた姿で、光から解放された。つぶっていた瞼を開くと飛び込んでくる、自分の姿。肩から胸、臍、そして股間までを包んで締め付ける着心地が容赦なく、ハイグレ人間となった雪乃に快楽を与える。こんな水着姿だというのに、恥ずかしいどころかむしろ心地よく誇らしい。
「これ……私……!?」
「そ。アナタはもう人間じゃない。ハイグレ人間の雪乃よォん♪」
「は、はい……っ!」
 自然とにやけてしまった頬のまま返事をすると、魔王はやや残念そうにため息をついた。
「まだちょっと戸惑っているのね雪乃。返事は『はい』じゃないワよ。――ほら。忠誠の証を見せてご覧なさい♪」
 そう言われた雪乃の脳裏に、自分が発するべき言葉がフッと浮かんできた。雪乃は姿勢を正し、それを滑らかに口に出す。
「も、申し訳ありませんハイグレ魔王さま! ……ハイグレっ!」
 黒のハイレグのV字の切れ込みを、勢い良く両腕でなぞる。初めてのハイグレポーズの気持ちよさに勝る出来事は、雪乃のこれまでの人生には存在しなかった。
「ふ、あぅ……!」
 頭が一発で真っ白になって、もっともっとハイグレがしたいという原始的な欲求だけが渦巻く。雪乃はそれに全てを委ね、ただひたすらに身体を動かし続けた。
「ハイグレっ! ハイグレっ! ハイグレっ! ハイグレっ! あはは……! ハイグレっ! ハイグレっ!」
 それを眺めるハイグレ魔王は、愉快そうに「ホッホッホ♪」と笑うのだった。
 少ししてから、ハイグレを繰り返す雪乃に突然、金髪の少女が飛びついてきた。
「――ユっキノーっ!」
「ハイグレっ! ハイ――きゃっ!」
 背後からタックルに近い衝撃を受けてバランスを崩し、よろめく雪乃。なんとか倒れずに済んで振り返ると、純白のハイグレ姿のアリーシャが笑顔で腰に抱きついていた。
「あ、アリーシャ!?」
「えへへ、やっとユキノもハイグレ人間になれたんだねっ!」
「……そうです。あなたと、魔王さまのお陰ですよ。感謝しています」
 礼を述べて頭を撫でると、アリーシャは猫のように心地よさそうに目を閉じた。それからようやく身体を離す。ズルリとハイレグの生地同士が擦れあい、くすぐったさを感じた。
 雪乃は、アリーシャと先ほどまでもずっと対峙していたというのに、今この時ようやく彼女と再会を果たせたように思えた。だからこそ言う。
「アリーシャ、お久しぶりです。大きくなりましたね」
「うんっ! ユキノもなんか、すっごく大きくなってるねっ」
「って、どこ見て言ってるんですか! もう……」
 アリーシャの上目遣いが自分の身体の色々なところに向けられていることに、頬を赤らめる雪乃。
「あとユキノ、対局ありがと! 絶対勝ちたくて一年間頑張ってきたけど……やっぱりユキノは強いね」
「こちらこそありがとうございました。アリーシャも強かったですよ。あとは、もっと臨機応変に。そして追い詰められた時ほど冷静になることを心がけましょうか」
「うん分かった! いつか絶対、ユキノに決勝で勝ってみせる!」
「ええ。楽しみにしていますよ」
 異国の友人同士、一年ぶりの会話を楽しむ2人。やがてアリーシャが、今度はハイグレ人間アリーシャとして誘う。
「あのさユキノ。……一緒にハイグレ、してもいい?」
 突然の申し出に雪乃は驚くが、すぐに微笑み快諾した。
「もちろんですよ。私こそハイグレ人間になるのが遅くてごめんなさい。――じゃあ、しましょうか」
 言って頷き合い、そして、
「ハイグレっ! ハイグレっ! ハイグレっ! ハイグレっ! ハイグレっ!」
「はいぐれっ! はいぐれっ! はいぐれっ! はいぐれっ! はいぐれっ!」
 ぴたりと揃ったハイグレポーズを、ハイグレ人間の雪乃とアリーシャはし続けるのだった。
 近くでは未希も、そして盤外ではユリアや和美や沙凪や、その他クラスメートたちも同様にハイグレ魔王への忠義を、ハイグレコールによって示していた。
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
「ハイグレッ! ハイグレッ! ハイグレッ!」
「はいぐれ! はいぐれ! はいぐれ!」
 その響きあう一体感が幸福感となって、ハイグレ人間たちの間を駆け巡る。この場でハイグレの快感と、ハイグレ魔王への感謝を感じていない者は、誰もいなかった。
「オホン! さてと……」
 やがて、魔王がそれに水を差すように雪乃とアリーシャに向けて咳払いをした。2人はポーズを止めようとするが止まらず、とりあえず魔王に顔を向けたのだった。
「はいぐれっ! はいぐれっ! どうしたの? 魔王さま」
「雪乃。そしてアリーシャ。地球と仲間の為によく戦ったアナタたち2人に敬意を表して、アタシはアナタたちに選ばせてあげようと思うの」
「ハイグレっ! 何を、でしょうか?」
 雪乃は予想も付かずキョトンと訊ねる。対して魔王は邪悪な笑みを浮かべ、こう続けるのだった。
「――ズバリ、『アナタたちを含めハイグレ人間を全員元に戻し、アタシは地球征服を諦める』か、それとも『このまま人間たちの洗脳を続けて、地球を完全にアタシの支配下に置く』か!」
 すると2人は顔を見合わせ、何も考えず即答した。
「はいぐれっ! そんなの決まってるよ! ねーユキノっ!」
「そうですよね、アリーシャ。ハイグレっ!」
 次の瞬間、黒と白のハイグレ人間の少女たちは笑顔で、示し合わせるでもなく声を揃えたのだった。

   *完*




とまあ長々書きましたがこんな感じでございます。また全滅オチか……
インスパイア恒例のネタ元レスの紹介です
としあき 15/02/06(金)22:12:00 No.20115202
としあき 15/02/06(金)22:18:11 No.20115220
としあき 15/02/06(金)23:12:55 No.20115418
としあき 15/02/06(金)23:36:20 No.20115498

上記レスをまとめると「映画の登りっこのように魔王と何かのゲームで勝負、負けたらハイグレ人間というシチュ。対戦者がそのゲームに自信を持っているとなお良し。真剣勝負で負けるのも卑怯な手で負けるのもアリ」というものだったので、もう全要素物語に突っ込みましたですはい。ほんとありがとうございます
一応予告ではアリーシャが魔王とガッツリ戦うように見せかけておいたので、そこのところは予想を裏切れたかなと思いますがいかがでしょうか

チェスは将棋と違い取った駒を自分の物として使えませんが、『ハイグレ人間将棋』があったらあったでなかなか洗脳・裏切りの過程などが面白くなりそうですね
今回チェスの方を選んだ理由はいろいろありますが、「駒に色が付いている(からハイレグの色にできる)」だとか、「キングとクイーンがいる(からオカマであるハイグレ魔王と設定を結び付けられる)」などが大きなところです
あと、初期の設定では「テイクされ光線を浴びせられたら抵抗しつつの洗脳。なお、対局は持ち時間有り切れ負けのルールであり、盤上にテイクされて洗脳中・抵抗中の駒が残っている状態だと雪乃側の持ち時間が減る」というのもありましたが、毎回洗脳描写をしていたらキリがないので見送りました。これが実現していれば、洗脳に抵抗している最中のクラスメートに『早く洗脳されろ』と恨みの言葉を投げつける、といったえげつない画が描けたかもしれませんが……
折角なので、書いたけどボツにした初期案の木村洗脳シーンを供養しておきます

”「う……た、助けて仙崎っ……! あたし、あたし……こんなの……っ!」
「ああ、あふけへあうお!」
 二人は完全に泣いていた。ピンクのハイレグを着せられた木村はがに股を開いて手を股間に添えた状態で、必死に内なる声に抗いながら。仙崎は未だ諦めずに壁を叩きながら。
 そんな二人の戦いも、数十秒と保たずに終わりを告げる。
「あ……は、ハイ、グレ、ハイ、グレ……!」
「きうあ!?」
「ご、ハイグレ……ごめ、仙崎、ハイグレ! あたしもう、た、耐え――ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
 少しずつ強くなっていくハイグレをしたいという欲に木村の心は遂に折れ、あれだけ嫌がっていたハイグレポーズを止められなくなってしまったのだ。
「ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ! ハイグレ!」
 一人取り残されて泣き崩れる仙崎の耳には、恋人の声色に混じっている感情がだんだん羞恥から悦楽に変わっていくのが聞こえていた。こんなに近くにいるのに何もしてやれなかった、という無力感が心に満ちる。それは彼ほどではないにしろ、雪乃や他の生徒も同じだった。
 そうして、誰にも邪魔されることなく一人せっせとハイグレをし続けた木村は、2、3分もするとすっかりハイグレ人間へと転向を果たしてしまった。洗脳が完了すると彼女は悠然と盤上を歩いて退出し、審判のユリアの後方に立つと盤の方を向いてハイグレポーズの続きをし始めた。”

で、チェス描写ですが、もう何度も書いていますが自分は初心者に毛が生えた程度の実力しかありません。作中の雪乃vs魔王(というかほぼアリーシャ)の対局、及び局面画像にはWinBoardというソフトを用い、それに同梱のCPWという思考エンジン同士の対局を利用しました。但し、黒5手目Nc6までと魔王のクイーン化以降は自分で作成しました(ので穴があるかもしれません)
CPWの手を文章で解説してみて、色々勉強になるなと思いました。ですが、そんな自分でも「何だこの着手は」と思う手も幾つかあり(特にQ交換前の白19手目のBh6。他の候補手(Bxc4やBg4)は狙いが理解できるけど、Bh6の意味はさぱらん。なので本文中では着手自体をはぐらかしました。そもそもそっちのビショップ動かすのはダメだろ)、それをロシアや日本の若年層最強クラス設定の人間が指してしまうのはいかがなものかというところですが、自分にゲームメイクを出来るほどの腕が無いのでコンピュータに任せる他どうしようもありません。まあ、「最終盤で白キングがクイーンのように動ければ劇的大逆転が見込める局面が現れる」という、どうしても本作で描きたかった展開になってくれた棋譜だったので、使わせて頂いた次第です
参考にさせていただいたWinBoard、及び多数のチェス関係サイト様には、この場を借りて感謝申し上げます

そして最も重要なことを一つ声を大にしてお伝えいたします
少なくとも2015年現在、チェスに必勝法はありません! 初手Nf3で必敗というのはあくまでもフィクションです! その他「宇宙チャトランガ」をはじめ本作中には架空の設定がありますので、鵜呑みにしないようお願いします!
数百年数千年連綿と連なってきたチェスやチャトランガ系ゲームの歴史が、そんなに底の浅いものであるはずがありません。それらが宇宙人にとっては必勝法のあるつまらないゲームである、なんてことは、一人の地球人として信じたくはありません。チェスも将棋も素晴らしいゲームです、とここに述べておきます。
でもまあ、どうぶつしょうぎは後手必勝なんですよね。チェスも将棋も二人零和有限確定完全情報ゲームですから、いつかは完全解析がされてしまうのかもしれませんが

少なくとも将棋においては今はまだその時ではない、ということは、現在開催中の『将棋電王戦FINAL』が実証しています
「万全の状態の人間が一人でもコンピューターに勝てる限りは、人間の負けではない(意訳)」と言ったのは元チェスチャンピオンのガルリ・カスパロフ氏ですが、本当にその通りでして、まだまだ人間もコンピューターに勝つことは可能なのです
自分はコンピューターでもプログラマーでもないので人間側を応援していますが、コンピューターが人間を完全に圧倒する姿というのも、恐ろしいながらも見てみたいものです。その時が来たら「かがくの ちからって すげー!」と心から言いたいです
そんな電王戦FINALの第一局、第二局の結果は、詳細は他に任せますが、プロ棋士側の2連勝となっています。まさに明日の第三局は団体戦として人間の勝利がなるか否かという大一番です
……なのに明日は用事があって生では観られないんですよ……ちくせうちくせうっ!


さて次回予告です
時期的にはちょっと、いや完全に過ぎてしまいましたが、ようやく『帝後学園の春』を書きたいなと思うことができました
ということで『卒業式編』完結まで行けるかどうか。どちらにせよまずは読み返して思い出さないと書けもしないや
はたまたやっぱり別の話の続きになるか、新作になるかは……まあ未定です
とは言えブログ開設一周年に向けて少しペースアップ出来ればいいなーとは思っています。出来るかはやってみなければ分かりませんが

ではまたー


P.S.1
本記事でブログ内の記事数が30になりました。そこで、過去にもブログ全記事リストを作りましたが、小説作品をまとめて(手動で)整理したページを改めて作成しました
はじめにお読みください&ブログ内作品INDEX
ブログトップに置いてある注意事項記事「はじめにお読みください」の「続きを読む」あるいは記事タイトル自体をクリックすることで行くことができます。また、関連リンクの中にもその記事へのリンクを貼っておきます
是非ご活用ください

P.S.2
3/31発売のあのDVD付きの雑誌(品名はステルスしているが実質ダイレクトマーケティング)、購入しようか悩み中です
それと最近ハイグレのアレがTVで紹介されたりだとかして(このブログにもアレのタイトルでweb検索した人が来ることもあります)、なんかなんというか微妙に不思議で居たたまれない気分ですね
……まあ、全面的に嫌というわけではないんですが。かと言って大々的になりすぎたら色々面倒なのも分かるし。うーん、コメントし辛い……

P.S.3
先週のスレでの参式氏の休止表明、正直言ってしまえばいちファンとしてとても残念です。ただ、創作のモチベーションを保つことの難しさはこれでもよく知っているつもりなので、一旦筆を置いて休みを取るのも大事なことだと思います。いつの日かまたサイトやスレに帰ってきていただけることを、心よりお待ちしております
そして、ソラ氏の方は色々一段落ついたようで先日ブログを更新されました。こちらもまた濃ゆい新作、期待しております

P.S.4
雪乃vs魔王のチェス棋譜、pgn対応のテキストで置いておきます
メモ帳にコピペ→pgn形式で保存すれば、対応するチェスソフトで棋譜再生ができます。あるいは、http://chesstempo.com/pgn-viewer-beta.html様のようなサイトでこのテキストを丸々コピペしても再生できます(このサイトの場合はEnter PGN Text:にペースト→Load PGN)
但し、64手目白番で魔王がクイーン化した部分はPGNでは(多分)再現できないので別の対局として扱っています。別々にコピペして使ってください

[Event "HighgleNingen_Chess"][White "HighgleMaou_Alicia"][Black "YukinoYumekawa"]1. e4 c5 2. d4 cxd4 3. c3 e5 4. cxd4 exd4 5. Qxd4 Nc6 6. Qd3 Bb4+ 7. Nc3 Nf6 8. Bf4 Bxc3+ 9. bxc3 d5 10. exd5 Nxd5 11. Bd2 O-O 12. Be2 Re8 13. Nf3 Bg4 14. h3 Bxf3 15. Qxf3 Ne5 16. Qg3 Nc4 17. Bg5 Qa5 18. Kf1 Rac8 19. Bh6 Qxc3 20. Qxc3 Nxc3 21. Bxc4 Rxc4 22. Bg5 Ne4 23. Be3 Ng3+ 24. fxg3 Rxe3 25. Kf2 Ra3 26. Rhb1 Rc2+ 27. Kf1 b6 28. Re1 Kf8 29. Re2 Rxe2 30. Kxe2 Rxg3 31. Kf2 Ra3 32. Ke2 b5 33. Ke1 a5 34. Kd2 b4 35. Kc2 Rc3+ 36. Kb2 Rg3 37. Rg1 a4 38. h4 f5 39. Kb1 Kf7 40. Rf1 Kg6 41. h5+ Kg5 42. Rf2 b3 43. axb3 Rxb3+ 44. Ka2 f4 45. Rf1 Rg3 46. Rf2 Re3 47. Rf1 Re4 48. Ka3 Kxh5 49. Rh1+ Kg4 50. Rxh7 g5 51. Rc7 Re2 52. Kxa4 Kg3 53. Kb5 Kxg2 54. Rc5 g4 55. Rc4 Kg3 56. Rc3+ f3 57. Ka4 Kh2 58. Rc4 f2 59. Rxg4 f1=Q 60. Rh4+ Kg3 61. Rb4 Ra2+ 62. Kb3 Rd2 63. Ka4 Qa6+ {64手目白番でKがa6の黒Qをテイクするイリーガルムーブをする}

[Event "HighgleNingen_Chess_64..."][White "HighgleMaou_Alicia"][Black "YukinoYumekawa"][FEN "8/8/Q7/8/1R6/6k1/3r4/8 b KQkq - 0 1"][SetUp "1"]1...{64手目白番でa4のKがQ化してQxa6をした場面の続きから} Rf2 2. Qg6+ Kf3 3. Qf6+ Ke2 4. Qh4 Ke1 5. Rb1+ Ke2 6. Qe4+ Kd2 7. Rb2+

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ジャンル : 小説・文学

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No title

はじめまして!いつも楽しく読まさてもらっております。
一応、自分は普段趣味で小説を書いていたりもするので、作品を作る大変さも多少はわかるつもりです。
これほどの作品……ありがとうございます!そして、お疲れ様です!
ハイグレ人間チェス面白かったです!
初めのアリーシャ洗脳からの、親友同士(+α)の決戦……予想を裏切られました!
最後、雪乃が洗脳されてもないのに絶望からハイグレ人間を望む、魔王様に感謝するといった描写も、一人残ってしまった絶望感が現れていてよかったです。
そして、やはり最後がハッピー(?)エンドなのも良い!

次回はどのようなものを作るのかはわかりませんが、ぜひ頑張ってください。


追記。
ハイグレ小説は書いたことはあるんですけどね……完成後、複数人に見せただけで結局はお蔵入り状態ですね。
自分の場合、独学過ぎて……なんていうか、自信がないんですよね。文章能力はともかく、話もイマイチですし。

No title

はじめまして、実は書き込んだ中の1人でもあります
まさか、あの書き込みがこうして作品にもなるとは
オカマだからクイーンの動きもできるなんて魔王様らしさもある凄い発想だなあと感服いたしました
あと、将棋星人が攻めてくるコピペをちょっと思い出しました

Re:

いつもながら返信が筆不精です(もちろん戴いたコメントは全てありがたく読ませていただいております)

>ハイグレ人間T氏
ご感想ありがとうございます
予想を裏切れたのならいち創作者として してやったりです
ハイグレ小説だからといって、そういった普遍的な「小説の醍醐味」を蔑ろにしないように、ということは常々心がけたいと思っています
ハイグレ小説としてのハッピーエンドは人間側全滅ですし当然書いていても楽しいのですが、あんまりマンネリしすぎても「小説の醍醐味」的視点からはどうなのでしょうか……ちょっとした悩みです
(見逃していたら申し訳ないのですが)……ハイグレ人間Tさんはハイグレ小説、書かれないのですか?

>ハイグレ人間C氏
あなたのせいでこんなの書いちゃいましたよ! 何てこった! ありがとうございました!
ゲームで負けたら洗脳というシチュは自分も昔から妄想していたものですから、スイスイ筆が進みました
>将棋星人
羽生先生のやつですよね。確かに書き出す前のイメージの根底には、そのコピペがあったことは間違いないです
「宇宙ではチェスは完全解析されている」なんて設定にしてしまったため地球人は本気の魔王に勝ち目が無いわけですが――将棋は解析されていないとして、まともなルールで将棋星人や宇宙人と対局して地球の命運を決するなら、やっぱり羽生先生以外には頼れないですね

将棋といえば電王戦FINALがあのような結末を迎えたわけですが……電王戦は決して相容れない「異種格闘技戦」であって、そして結局のところには人vs人の構図があるのだ、ということを痛感させられました
(ここで言うことではありませんが)でもとにかく面白かった! 今後の展開は未定とのことですが、無責任ないち視聴者としてはなんとか続けてほしいなと願ってやみません
プロフィール

香取犬

Author:香取犬
ハイグレの洗脳を受けて早幾年
遂に自らハイグレ小説を書くようになってしまいました
いつでもネタ募集中です
酉◆RYenwqtp9Y

関連リンク
新興宗教ハイグレ教
 →ハイグレアイドル候補生!
ハイグレ小説王国
 →変わりゆく若人たち
 →帝後学園の春


*応援しています*
ハイグレ第参ホール by参式
悪堕ち・洗脳・ハイグレ 絵とSSのひととき by正太郎
ハイグレ帝国史 byソラ
ハイグレストーリー! byナッシー
ハイグレ小説を書きたいだけの人生だった……。 by0106
ハイグレSS秘密研究所 byぬ。
くもりのちはいぐれ byなまもの
ZweiBlätter by空乃彼方
ハイグレ創作喫茶 byボト


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